ある日ある時、どこからともなく現れた美しい女性。彼女が誰でどこから来たのか、誰にもわからない。その街は古いしきたりのために窮屈で退屈だ。けれど彼女は、意にも介さず、誰の断りもなくそこに住み着き、不思議な力で街に笑いと生活の喜びを与えてゆく。
これがうんと切り詰めた『ショコラ』の物語。おやっ、それはウソでしょう? だって、その話はどこかで聞いたことがある…。思い出せないけれど、たしか小さい時に…。
そう、それで正解。『ショコラ』の物語は、『メリー・ポピンズ』のアレンジなのだ。
映画は街の住民が、教会のミサに集まっている所から始まる。外は嵐の気配だが、わざと誇張したCGで、どこかウソくさい。そのとき、いきなり教会の扉が音をたてて開いてしまう。何かが起こりそうな予感に満ちた、このシーンを見て、ラッセ・ハレストレムの作品だと当てられる人は、そう多くないはずだ。こういう演出をする監督はただ一人。『バットマン』(1989)や『スリーピー・ホロウ』(1999)を手がけたティム・バートンだ。
『サイダーハウス・ルール』(1999)や『ギルバート・グレイプ』(1993)、または出世作『マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ』(1985)を見てもわかる通り、ハレストレムという人は、確かに寓意性の高い物語を扱うことが多いが、表現においてはかなりの写実派である。この始まり方を見て、今回は本気でファンタジーをやろうとしているな、それもバートン風味でかなりブラックな。と、直ちに了解されるのである。案の定、撮影監督は『バットマン』を手がけたロジャー・プラットだ。このカメラマンは、主にテリー・ギリアム監督とのコンビで、『フィッシャー・キング』(1991)といい『12モンキーズ』(1995)といい、やはりリアリズムとファンタジーを融合したような、不思議な映像世界を生み出している。
これだけお膳立てがされていれば、真っ白な画面(霧? 雲?)から始まり、靄がはれていくと、街の俯瞰からゆるやかにカメラが地上に下りていくというオープニング映像も、すぐに理解できそうだ。これはまさに、風にのって傘をさしながら、メリー・ポピンズが空からおりてくるイメージと合致する。ただし今度のメリーは子連れだけど。
『ショコラ』のメリー・ポピンズ、ヴィアンヌ(ジュリエット・ビノシュ)は、伝統と教義でがんじがらめになった街に流れて来て、チョコレート・ショップを開く。不思議な霊感を持っていて、客の好みのチョコをぴたりと当て、家庭に幸せのきっかけをもたらしてくれるのだ。彼女の娘(ヴィクトワール・ティヴィソル、大きくなった『ポネット』(1996)の娘!)は聞き分けのいい子だが、放浪生活にどこか疲れてもいる。
ヴィアンヌの仲間は増えていくが、奔放な彼女にイラだつ者も多い。やがてそんな彼女に耐えられなくなった、厳格な伯爵たちの勇み足で、大きな事件が起こるが、もちろん彼の心ですらもヴィアンヌのチョコが溶かしてしまう。このへんのくだりは、ディズニー映画『メリー・ポピンズ』(1964)で、やはり石頭のお父さんが考えを改める、「スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス」の名シーンを連想しない方が難しい。
『メリー・ポピンズ』で、ディック・ヴァン・ダイクが愉快に演じた、煙突掃除屋さんに当たる人物も、もちろん登場する。街にとっては、やはり厄介者のジプシー、ルー(ジョニー・デップ)がそれだ。彼は煙突掃除こそしないものの、ドアの修理はしてくれる。
ヴィアンヌの娘が幻視するカンガルーのイメージは、『メリー・ポピンズ』の子供たちにとっての「2ペンスの鳩」だ、とまで言うと、こじつけが過ぎるだろうか。
しかしラッセ・ハレストレムは、どうしてこのような物語にこだわったのだろうか。これは想像でしかないが、アメリカでの地位を固めた『ギルバート・グレイプ』も、前作『サイダーハウス・ルール』も、自分の定住場所が見つからない主人公の物語だった。そして、そうした非定住者の代表人物として、ハレストレムがメリー・ポピンズに興味を持っても、不思議はなかったのではないだろうか。このことは、スウェーデン出身のハレストレムが、ハリウッド色に染まることなく、どこか居心地悪そげにアメリカ映画を撮っていることと無縁ではないように思う。
その意味で、「おいしそうなチョコレートに目を奪われ…」とか、「スターの座を奪ってしまった食べ物」(いずれも宣伝用チラシ)といった側面はあまり関係ないし、監督もさほど興味を持ってはいないんじゃないか、と感じるのだ。おおかたの『ショコラ』評も、書きやすいのかもしれないが、たいていそういう意味の表現を入れてしまっている。
なるほど、確かにヴィアンヌが練りこむチョコは魅力的だし、数々の料理は目を楽しませてくれる。けれども注意して見ると、それほど入念な演出をしていないこともまたわかるはずだ。パッパッと見せるだけで、あまり執拗に描写しているわけではない。
すなわちこれは、ハレストレムが「定住」をテーマにした3部作の、最終話ではないだろうか。もちろん3部作かどうかは、今後の仕事を見る必要はあるけれども。ただ、あえて書きはしないが、少なくとも『ショコラ』の結末を見る限りにおいて、「定住」というモチーフには、ある種の達成が得られたように思うのだ。
ヴィアンヌがメリー・ポピンズを体現するなら、彼女はやがて風と共に去っていかなければならない。で、本当に去ってしまうのかどうかが、物語にある種のサスペンスを加味していることも重要な点だろう。メリー・ポピンズにもし子供がいたら、その子供とはどんな関係が生まれるかを考察している点も、テーマを深めているように思う。
『メリー・ポピンズ』は、(大人も楽しめるとはいえ)やはり子供向けの作品だが、その変奏曲である『ショコラ』は、枝葉の豊富な洞察に満ちた、大人の映画だ。
(2001.6.13)