|
*
|
| dog biscuit |
| * |
|
#01「あの頃ペニー・レインと」
|
|
セックスと嘘とロックンロール |
|
『あの頃ペニー・レインと』の準備中、キャメロン・クロウは、90歳を越える老匠ビリー・ワイルダーに長時間のインタビューを重ねていた。その結果として出版されたのが、面白さ抜群の大著『ワイルダーならどうする?/ビリー・ワイルダーとキャメロン・クロウの対話 』(キネマ旬報社)で、その中にこんなエピソードが記されている。 『私(クロウ)が今書いているのは自伝的要素が少々入った脚本であり、おそらく次の映画になるだろうと考えている。彼(ワイルダー)は私を励ますようにうなずき、さっそく構成について問いただす。うまく作るには厄介な映画だ、と彼は言う。自分ならその手の映画は避けるだろうと。「そんな映画をおもしろがるのは私の両親だけだろうからな」』(P.238) この脚本とはもちろん『あの頃ペニー・レインと』のこと。このようにクロウは、シナリオの神様ワイルダーに、自伝的作品を撮ることのリスクを警告されたものの、それを最高に「うまく作る」ことに成功した。キャメロン・クロウの圧倒的勝利である。 キャメロン・クロウが自らをモデルとしたウィリアム(パトリック・フュジット)は、わずか15歳でローリング・ストーン誌の記者として抜擢され、中堅バンド、スティルウォーターのツアーに同行する。この映画が描くのはウィリアムの体験記だ。 思うにロック・ミュージシャンというのは、どこか兄貴分的なイメージを持つ、あこがれのリーダーといった存在ではないだろうか。10代の頃は熱心にロックを聴いていても、年をとるにつれて同時代のロックを聴かなくなる人が多いのは、現役のミュージシャンがみな自分よりも年下になってしまうからだろう。熱狂するアーチストが年下だったらやっぱりどこか落ち着かない。 この映画が「自伝的作品」の枠を越えた秘密の一つは、そこの所を押さえた人物設定をしたからだろう。実際ウィリアムは、いかにも聞き分けのいい弟タイプの少年だ。反抗的だが面倒見のいい姉が上にいることも、決して偶然ではあるまい。そんなウィリアムにとっての兄貴分は、バンドリーダーのラッセル(ビリー・クラダップ)で、彼とは愛憎入り乱れた関係性が築かれる。いささか鈍くすらある、このウィリアムの人物造形にためらいと矛盾がないので、セックスと嘘と内輪もめに満ちた、いくらでも破滅的に描くことの可能な、バンド・ツアーの様子も、清潔感たっぷりに描いて違和感がない。 そんな兄と弟のような関係の間を奔放に行き来するのが、ペニー・レインと名のる少女で、彼女の人間性はどこまでも希薄で実体感がない。だからこそ、どんな関係性のすき間にも入り込むことができて、男たちの感情を揺さぶっていく。華やかさと透明感をあわせ持つそんな少女を、ケイト・ハドソンがまるで妖精のように演じていて印象深い。 ワイルダーが警告する、自伝的作品を撮る困難さを、キャメロン・クロウが克服できた秘密のもう一つは、キャメラが決してウィリアムの視点を離れることがないことだ。彼がラッセルとその仲間たち、あるいはペニーを見つめる眼差しは、客観的かつびくともしないので、物語がただの私的な思い出話に堕してしまわない。 たとえば、自殺を図った失意のペニー・レインが、医師達の治療を受けている間、ウィリアムの視線はまちがっても彼女の生死を案じて不安そうになったりはしない。もしそんな表情をしたりすれば、それは凡庸なセンチメンタリズムに落ちてしまう。かわりにウィリアムは、彼女の素足をじっと見つめている。なぜかというとそれがきれいだからだ。その瞳はあくまでも批評家の目であり、過ぎ去る今という時間を見つめる冷静な眼差しではないだろうか。この映画の品位はそんな場面に現れている。 ウィリアムを中心とする人間関係は、最終的にペニーの粋な計らいで、ステキな結末を迎える。ここでもう一度、前掲書『ワイルダーならどうする?』を引用してみたい。 『ワイルダーは今私がとりかかっているシナリオについてお決まりの言葉で尋ねる。「第三幕はどうなっているかね?」問題点が二、三あって、それを解決しようとしているところですと答える。「もしも第三幕に問題があるなら」とワイルダーは同じライターとしてアドバイスを与えてくれる。「問題の根は第一幕にある」』(P.305) クロウが書いたシナリオの第一稿がどんなものだったかはわからない。けれど、この味わい深い結末を用意するには、ペニー・レインという少女の扱いがポイントだったろうことは間違いない。思えば彼は最高のレッスンを受けながら、この作品を作り上げたわけだ。 レッスンといえば、最後に急いで付けたすと、ウィリアムに文章作法を指導する、これも兄貴分的なロック・ジャーナリストを、フィリップ・シーモア・ホフマンが、たいへんな存在感で演じている。彼はいつも薄暗い部屋の中からウィリアムにレッスンをほどこす。つまり影の存在に徹するわけだが、ウィリアムに最初の仕事を渡すのが青空の下だったのがいい。彼はウィリアムにとっての、ロックの光と影を代弁しているかのようだ。 (2001:4.16)
|
|
eriko's Notes : 邦題の「あの頃ペニー・レインと」から受けるイメージは、なんともセンチメンタル。若い頃のいろんな思いが呼び覚まされて、懐かしくて、ちょっとせつない気持ちにさせられました。いつかしら、心の奥の方に押し込んでしまっていた苦い思い出なんかもね。まさにセンチメンタル!でも、そんな思い出も含めて、今の私があるんだなあ〜って、年を経て考えてみると、苦いがビタースイートになってるのでした。観終わった後も、しばらく余韻を楽しんでいたくなりました。 ウィリアムとペニーが、初めて出会うシーン。「なんだ、グルーピーか・・・」と言い捨てるウィリアムに、ペニーは、「私たちはグルーピーじゃないの。バンドエイドよ!」と言い返します。(これがなかなか印象的) その論理、わかるなあ〜。ところで、今でもグルーピーって、ポピュラーな言葉なのかな? |
CineCritique menu <-- here --> 02