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dog biscuit
Mr.N'CineCritique
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#08「A.I.」

永遠と1日

1. 表層と深層

 この作品が10年に1本の傑作である、とまず態度を明らかにした上で、しかし『A.I.』を見終わった後の、この居心地の悪さは何なのだろうと思う。実際、その腹のこなれ具合の悪さからか、* アメリカでの興行成績は、決して期待通りとはいかなかった。
 その理由の一つは、自分がこの映画から感じたことについて、それでいいんだろうか? と思わず自問自答させられてしまうからではないか。両極端を言えば、感動している自分に対して、「泣いたりしてもいいのかな?」とか、あるいは泣けなかった自分に対して「感動できない自分は何か変なのかも?」と、つい我にかえってしまうのだ。
 たとえば私の場合、アンドロイド少年のデイビッド(ハーレイ・ジョエル・オスメント)に対してまったく感情移入ができなかった。それもそのはずで、機械であるこの少年に共感などできるわけがないし、そもそも人間が彼を愛せないことの悲劇がこの映画の骨子なのだから、感情移入を排したスピルバーグは正しい、と思いながら見ていたところ、しかしそれが本来意図した演出とも思えなくなってきた。きっと人によってはデイビッドに対して共感しまくって、号泣する人もいるに違いないし、またそれが間違った感じ方とも思えないのである。
 また、見る者の年齢や性別、そのときの気分で、様々な感じ方をするかもしれない。子供を持っているかどうか、独身か既婚かによっても違っていそうだ。だから、うっかりした解釈をしてしまうと、猛反発をくいかねない作品なのだ。

 解釈ができないのなら、画面に映った表層のみを見つめ、全てを「画」としてとらえることに徹しようとする。しかしそうするには、この映画はあまりにも深読みしたくなるディテールが多すぎる。
 たとえば、冒頭でホビー教授(ウィリアム・ハート)が、女性ロボットのプレゼンをする一連のシークエンスは、彼女(女性ロボット)が自分の化粧を直しているところで終わる。そこで場面が変わって、デイビッドの母モニカ(フランシス・オコーナー)が初登場するのだが、そこでは彼女も化粧を直しているのである。同じ化粧という動作を通じて、ロボットから人間へと場面が転換されるこの瞬間を見ると、そこに限りなく機械に近い人間、限りなく人間に近い機械という暗喩を深読みしたくなる。日本版宣伝コピーの言葉でもある、「その愛は真実なのにその存在は、偽り」。これがロボットに対して該当し、「その存在は真実なのにその愛は、偽り」が人間に対して該当する、という解釈も導けそうだ。
 デイビッドがかくれんぼを楽しんだ(?)、クローゼットを見ると、もちろん『E.T.』(1983)以来の、スピルバーグ的な子宮のイコンを見て取らずにはいられない。けれど、そんなことをあげつらったところで、ひとつも『A.I.』がわかった気になれないばかりか、面白くもない理屈づけに堕してしまう。その意味で、深層がよくわからなくても、圧倒的な映像の表層で、ためらわずに傑作だ! と思わされてきたキューブリック作品と、表層を見れば深層まで一気呵成に納得できてしまい、そのせいか長いこときちんとした批評を受けられなかったスピルバーグ作品との、まさに中間にありそうだ。

 表層を眺めているうちに、いつしか集中して深層を読みとろうとしている自分と、そのうちだんだん手におえない気分になってきて、またしても表層の美に逃げ込もうとしている自分と、その両方を浮き沈みしてしまう。抽象と具象の両極を行きつ戻りつするこの感覚。この映画から感じる居心地の悪さは、どうもそのへんが原因ではないだろうか。だからこの映画について、何か言うことが可能だとしたら、おそらくそこがカギだ。
 表層と深層の間の揺れ動きは、『A.I.』という作品がキューブリックとスピルバーグという、強烈すぎる個性のぶつかり合いで製作された以上、いわば必然だったのかもしれない。くしくもスピルバーグ自身が、 *「彼(キューブリック)は知的な部分から映画にアプローチするが、私は感情の部分から作品に入っていく。そして作品の最後には、彼の作品は感情に訴えかけるものとなり、私の作品は知的な部分へ至るものとなる。」(サテライト記者会見より)と語った通りの結果ではないだろうか。
 スピルバーグの言葉が裏付ける通り、『A.I.』には、それぞれ別方向に働く2つの力があちこちに見て取れる。一つのイメージと対になるもう一つのイメージ。そこで本稿では、『A.I.』という作品がはらむ、「対」となるイメージ群を探り出し、そこから連想され得るさまざまなテーマの可能性を提示してみたいと思う。

* で注釈が表示されます。


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