『エピソード3』は、過去5作の例に漏れず、冒頭からいきなり無数の宇宙戦闘機による空中戦が展開する。このとき一機撃墜されるが、ルーカスの視線は撃墜に成功した戦闘機には向かわない。かわりにルーカスの演出は、攻撃を受けて宇宙のクズと消えて行こうとする側に目を向ける。カメラをゆっくりと動かす先は、目標撃破に成功して飛び去って行く戦闘機ではなく、粉々になったその残骸なのである。そうしたルーカスの愛惜のまなざしは見落としてならない細部だ。
『エピソード3』は炎の映画でもある。死んだジェダイは火葬によって葬られることを知るわたしたちは、25年以上も待ち続けた、オビ・ワンとアナキンの決戦が、燃え上がる溶岩を背景となったことに動揺する。すなわち敗れた側は、そのままそこが墓場となるということだ。オレンジと赤が凄絶に明滅する中、二つのライトセーバーがぶつかりあう。敗れた側は炎に包まれる。しかしそれは、決して溶岩の炎が燃え移ったのではなく、憤怒のあまり身体そのものが燃え上がったのだ。そして勝った側も、これ以上はないくらいに熱く燃え上がって後悔と悲しみに引き裂かれる。オビ・ワンとアナキンが剣を交える前に、二人が交わした最後の言葉が互いに最大の敬意をもって口にし合った、「理力と共にあらんことを“May the Force be with you.”」であっただけに、このシーンは限りなく切ない。またその時のオビ・ワンの少しはにかんだような微笑が、深い愛情に満ちていただけに一層(ユアン・マクレガーの優れた技量がきわだつシーンである)。想像を絶する無限の怒りと哀しみを表現した、この炎の演出にジョージ・ルーカスの天才的な技量を見る。
『エピソード3』は、二つの太陽を遠くに望む惑星タトウィーンの、およそこれ以上は考えられない完璧なショットで『新たなる希望』にリンクする。彼らの「未来」は『エピソード4〜6』に委ねられ、語られた「未来」に対する「過去」は、再び『エピソード1〜3』で振り返る。このように、スカイウォーカー親子2代にわたる物語は、永遠に終わることのない無限の円環が形作られるだろう。
このように、全部で6つの物語は、そのいずれもが「未来」へ、あるいは「過去」へと向かう、きわめて奇怪な構造を持つことになった。「スター・ウォーズ」のエピソード群からも、こうして「現在」というものがごそっと抜け落ちる。そうすることでシリーズの構成は、それ自体がアナキン・スカイウォーカーという人物像を暗喩する。そして、それはちょうどアメリカ合衆国という国家そのものをも象徴するかのような、二重性をも匂わせている。
“A long time ago・・・”という、あまりにも有名なフレーズから始まる『スター・ウォーズ』は、すなわち時間との戦いをめぐる悲劇なのだ。
それは自ずと、転落をあらかじめ宿命づけられた、けれど再生への希望を胸に秘めた、人類そのものの寓話なのだ、と把握することも可能だろうか。そして、それこそがジョージ・ルーカスその人の人間観であると見て差し支えないように思う。その光明は、はるか遡ってルーカスの処女作『THX-1138』で、管理社会を脱出した男女がついに目にする、外界の輝きへと思想的意味がちょうどダブる。
映像技術の進歩に伴って、各種「特別編」の形でバージョンアップを続ける、『スター・ウォーズ』という映画史上最大の祭典は、アメリカ合衆国とアメリカ映画の存在を引き受けながら、永遠に続く無限の叙事詩なのだ。
そして、『エピソード4』が最初に公開されてから27年間、リアルタイムでエピソードを重ねていくのを体験できた、自分の出生年の幸運を改めて胸に噛みしめる。
(2005:9.10)