#38『オペラ座の怪人
- 通俗たることを誇れ! -

 ジョエル・シュマッカーはどんな種類の映画でも作れる、貴重な職人監督だ。青春映画の最高峰『セントエルモス・ファイアー』(1985)以後、メロドラマ『今ひとたび』(1989)に『愛の選択』(1991)、バットマン・シリーズ(1995、1997)までこなし、サイコサスペンス『フラットライナーズ』(1990)、『8mm』(1999)や、国家または犯罪ミステリー『9デイズ』(2002)、『依頼人』(1994)、『評決のとき』(1996)に、社会派ドラマ『フォーリング・ダウン』(1993)、『ヴェロニカ・ゲリン』(2003)。そして舞台限定の超意欲作『フォーン・ブース』(2002)から、ドグマ95(*)に参加しての戦争物『タイガーランド』(2000)などなど、ほとんどのジャンルを横断して、しかも全てが満足させられる出来ばえといっていい(2本のバットマンについてもそう言うと、いつも半殺しの目にあうんだが、なんでだろう?)。原作物からオリジナルまで何でもOKと、私の偏愛する監督の1人である。そんなシュマッカーがまだ未着手なジャンルが、ミュージカルだったわけだが、その初めての作品が、知名度抜群の大作『オペラ座の怪人』で登場した。

 さて、その『オペラ座の怪人』の物語。パリのオペラ座を舞台にした、その人物関係が、ひどい矛盾と葛藤のもとに成り立ったものであることは、意外と忘れられている。すなわち、オペラ座は華やかな歌手たちによって、連日派手やかな舞台を催しているが、その華麗な音楽は実は地下に隠遁する醜い怪人(ジェラルド・バトラー)によって作られていること。そこで、その怪人のご機嫌を損ねると、音楽ができなくなり、必然的にオペラ座の衰退をもたらすことである。
 なのに、怪人は「表」の者たちから虐げられており、表舞台には出ない。そして、若く美しい新人のプリマドンナ、クリスティーヌ(エミー・ロッサム)に恋慕しているものの、そこに新任のオペラ座オーナー、ラウル(パトリック・ウィルソン)が登場する。偶然にも幼馴染であったことも手伝って、ラウルとクリスティーヌはすぐさま恋におちる。ここから怪人の片思いがはじまるのだが、彼が恋に破れることは自ずと創作意欲の減衰につながり、怪人の創作力に負っているオペラ座のオーナーとしては、経営上の窮地にたつ(はず)、といった所である。
 もっとも、このオーナーは、そんなピンチになど意に介してないようで、ひたすらに恋に夢中である。そうしたことから、物語構造上、どちらに転んでも悲劇は避けられぬよう作りこまれている。

 さてどうしてこんなことを言い出したのかというと、そうしたドラマ内の本質的な葛藤を慎重に排除し、悲恋のドラマに話をしぼることで、『オペラ座の怪人』はある意味、通俗の極みであり、そうすることが最大の成果につながった規範ともいえる作品だからである。ここで「通俗」とは「何も考えなくてもいい」という意味であり、「後に何も残さない」ということで、かつ「人の快楽にのみ奉仕する」ということである。
 実は映画において通俗を極めることはとても困難だ。それはつまり、金にはなるが批評が伴わぬという永遠に解決されぬ命題。これによって、たとえばホークスもヒッチコックも評価が遅れ、80年代スピルバーグが混迷し、興行と評価の狭間に落ちたコッポラは製作機会を大幅に制限されるし、スコセッシはいまだに闘争の真っ只中である。
 職業的なプロデューサーは、意外とこのへんを軽々と乗り越えてしまう。ジョエル・シルバーやジェリー・ブラッカイマーがその最たるもので、「イベント」あるいは「見世物」としての映画作りに徹して迷いがない。彼らの作品にあっては、強力な品質管理の中、映画監督の個性は最低限に抑えられ、作家性の観点から差異を見出すことは(できなくはないが)困難だ。(シュマッカーも『9デイズ』でブラッカイマーと組んでいる)

 『オペラ座の怪人』は、アンドリュー・ロイド・ウェーバーによるオリジナルの舞台版が、そもそも通俗に徹しており、それ以上に、ウェーバーの作品自体がどれも通俗性に支えられている。宗教性を排除した『ジーザス・クライスト・スーパースター』に始まり、政治的にしようと思えばいくらでも可能なはずの『エビータ』や、エンターテインメントにのみ奉仕した『スターライト・エクスプレス』、大衆的人気の頂点に立つ『CATS』など、幸か不幸か一発で覚えられるメロディラインを生み出す圧倒的な才能も手伝って、決して芸術的評価に恵まれてきた訳ではなかった。
 しかし芸術的評価ってなんだ? と言わんばかりにミュージカル界の頂点に立ち続けるのがウェーバーのスタンスである。それは、ブロードウェイでスティーブン・ソンドハイムが独占するリスペクトの大きさと対比させればよくわかる。
 ウェーバー版『オペラ座の怪人』はガストン・ルルーによる原作の枝葉を、器用に刈り取って登場人物をしぼることで作られている。そして三角関係に物語を集約させ、有名な「シャンデリア落下」の一発芸に話題を集め、観客の興味を見事にキャッチする。
 『オペラ座』の映画化にあたって、シュマッカーはためらわず通俗性を引き受けた。企画的にはオスカー狙いできる作品である。いくらでも腕をふるえる作品だし、前々年に『シカゴ』(2002)が、ジャンルとしてのミュージカルをなめきった上で、構成とキャスティングの妙にのみ頼り、アカデミー賞を独占した実績があるならなおさらである。

 映画『オペラ座の怪人』にあっては、映像は歌に奉仕し、音響は劇場の恵まれた設備で身を浸すにふさわしく、ハイレベルで録音されている。カメラは柔軟になめらかに休むことなく動き続けるが、常に歌っている人物の正面に戻ってくるし、楽曲の中心を完璧に心得ているために、ここぞというところでは顔の大写し、または体に触れられる手を凝視する。だからどれだけ美術設計に凝っていても、神経は必ず歌に向けられ、画面に幻惑させられることはないだろう。これは音楽をつかみとるシュマッカーのセンスの問題だし、ウェーバーの作品に対する率直な敬意あってこその演出である。
 だから無意識に音楽が耳に入ってくる。そもそも有名な曲ばかりである上、知らないナンバーでも無理なく「きれいな曲」として認識させられてしまう。それはエミー・ロッサムがひとたび歌い始めると、必ず奇跡が起きるという雰囲気を作り出すことでもある。周囲は息を飲み、カメラは彼女に集中する。何かが起こるという予感が確実に描かれる。

 通俗を通俗たるべく演出するための、極めて注意深い配慮にあふれているのだが、そのために批評が芳しくないとすれば、それは批評の役割として悲しむべきことだと思う。たとえばニューヨークタイムズのA・O・スコットは、2004/12/22付のレビューでこう書く。「・・・感傷的なエモーショナリズムと、入念な美術によって、正当なロマンスも印象的で忘れがたいスペクタクルも共に欠いている(傍点筆者)」。彼の立場は、ウェーバーの原曲に対しても批判的で、ついには「この映画の音楽はあなたの耳をいっぱいに満たしてくれるが、上映後にもそれを口ずさんでしまうとは考えにくい」とまで記す。本気だろうか。この作品の通俗性を徹底排斥した批評の典型だ。(ちなみにNYタイムス読者によるネット投票では、★5つの満点中、4.27個と、この映画は比較的高い評価を得ている)
 この作品、日本でも批評的にはほぼ黙殺状態だが、絶好調の客足と共にこの映画は断然支持したい。評価はどうあれ、この映画のために製作者は最善の努力を払っており、しかもそれがすべて成功していると信じるからだ。シャンデリア落下の、ほとんど完璧なモンタージュには、見た者は必ずや胸が震えるはずだ。ジョエル・シュマッカーの多彩なキャリアの中でも、最高位にランクできる作品だと思う。
(シュマッチャー、シューマカー、シュマーカー、シューマーカー、シュマッカーなどなど、カナ表記の安定しないこの監督。作品数も多いのだし、そろそろ統一してほしい・・・。本稿では『オペラ座の怪人』公式HPでの記載、「シュマッカー」に統一)
(2005:03.05)

*ドグマ95・・・ラース・フォン・トリアーを中心に、デンマーク出身の監督らが始めた〈ドグマ95 純潔の誓い〉とは、撮影はロケのみ、音声は必ず同時録音、カメラは手持ち、人工的な照明不可、監督名のクレジット禁止など、映画製作にあたって、きわめて禁欲的な10箇条のルールを定めた誓いである。トリアーによると、スピルバーグも誘ったそうだが返事はなかったとのこと。ちなみに、トリアー本人は『ドッグヴィル』で思いっきりこの誓いを破った映画作りをしている(もうやめたのかな?)。


 『オペラ座の怪人』公式サイト:http://www.opera-movie.jp/

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