#37『五線譜のラブレター
』
- 歌の翼に -
『五線譜のラブレター』はしみじみとすばらしい。コール・ポーターが遺した歌の、超高純度の美しさがこれほど胸にしみる映画はまたとない。すばらしいコール・ポーター賛歌であり、アメリカン・ポピュラー・ソング礼賛の映画である。
監督アーウィン・ウィンクラーがポーターの歌に見出した、ある特質とは、それがポーターにとって、たった1つの意思伝達手段であった、ということだ。そしてそれは、とてもウィンクラーらしい観点ではないかと思う。
ウィンクラーといえば、まず『ロッキー』(1976)シリーズの製作者として忘れられぬ存在である。他にも『レイジング・ブル』(1980)から『グッドフェローズ』(1990)まで、マーチン・スコセッシと組んで世に送った傑作は数知れず。押しも押されもせぬ大プロデューサーなのだ。それが何を思い立ったか、『真実の瞬間』(1991)で突然の監督デビューを果たす。なんと、還暦を迎えてのデビューである。この作品は、マッカーシズムに立ち向かい、その非を訴える映画監督(ロバート・デ・ニーロ)の姿を描いた、最高にパワフルな一作だった。その後、常に真意を伝え損ね続ける男のドラマ『ナイト・アンド・ザ・シティ』(1992)と、自分が自分であることを伝えようとする、おそらくインターネットを主題とした初めてのサスペンス『ザ・インターネット』(1995)。そして、父としての真実の想いを、精一杯息子に伝えんとする前作『海辺の家』(2001)まで、いずれも一貫して、主人公が相手に何かを伝えようと悪戦苦闘することから発生するドラマだった。どれも最高に力がこもっていて、監督としてのアーウィン・ウィンクラーはいつか総合的に論ぜられねばならない映画作家だと思う。
だからそんなウィンクラーが、ポーターの歌をして「心の伝達手段」と解釈するのも不思議はない。だからこそ、老いたポーターが自分の生涯を舞台化し、歌と共にふりかえるという、この映画の凝った構成にも合点がいく。歌そのものが、その折々のポーターの心象風景なのだ。
ポーター(ケヴィン・クライン)と、その生涯を終生共にするミューズ、リンダ(アシュレイ・ジャッド)との初デートはパリの公園である。通りかかったカフェのピアノでやにわに歌い出すポーター。2人のダンスと心地よいアコーディオンの伴奏も入って、熱烈な愛の詩が“Easy to Love”の調べにのせられる。音の高まりとともに、高揚した気分を示すかのようにカメラが上昇していく。コール・ポーターの音楽とは、流麗ながらも次第に高まり、こみあげてくるメロディが特徴的である。そんな旋律を画にするためには、スムーズに飛翔し、なめらかに移動するキャメラワークは不可欠である。
その最高の達成は、“Night & Day”のシーンに見ることができる。譜面をわたされた男性歌手が「こんなの歌えない」と言う。高音から急に低音に移って、難しすぎるから曲を書き変えろというのだ。ポーターは、歌手にぴったり向き合い「歌えないのは楽しんでないからだ。歌詞に集中しろ」と言いつつ、自分自身がまずは歌い出す。それに合わせる歌手。見事な旋律が、美しいデュエットに変わる。作曲家と歌手は額をつきあわせるように歌いながら、共に盛り上がっていく。こうなるとメロディは勝手に沸いて出てくる。ハイコードから急激に下がる問題の箇所もなめらかに歌いきってしまうと、それを聞くやポーターは、直ちにピアニストにさらに高いキーへの転調を伝える。そこで音楽がクライマックスに達し、キャメラがぐるりと回るとそこは満員の聴衆に埋まった客席だ。さらにキャメラが戻ると、今度は舞台からポーターが消えていて、そこはもうスポットの当たった本番のステージである。アメリカン・ポピュラーソングの精神の極みだ。ポーターの歌は愛を伝えるために作られ、歌う者にも愛を伝えていく。また、それは聴衆にも波及する愛の形だということが、ワンショットで語られてしまう。もちろんCGも使っているはずだが、これほど映画に奉仕したCGは、なかなかお目にかかれない。
もっとも、ポーターの人生はそんなに幸せばかりには綴られない。リンダのために書かれる歌のその成功の後には、必ず同性愛者としての暗い側面が顔を出す。先に述べた“Easy to Love”で、リンダに求愛したのも束の間、翌日の彼のベッドの傍らにいるのは、彼女でなく若い男性だ。“Night & Day”の成功のあと、帰っていくのはリンダのもとではなく、求めるのは歌唱に成功することで将来を約束された、まさにその男性歌手との一夜だ。
「1人の人間や1つの性では物足りない」と言ってのけ、リンダにそれを隠そうともしない。妻として、しかしそれ以上に彼の創作の源である彼女は、心を痛めつつもそのことに目をつむる。なぜなら、彼の音楽が常に愛を歌ったもので、その愛の対象が自分であることをわかっているからだ。けれどその関係も決して、いつも同じ状態ではいられない。山もあれば谷もある。それを映画がどのように伝えるかというと、夫婦関係の危機がはじまると、彼の歌からは「愛」が消える。それまで紹介された歌が、必ずその歌詞に“Love”という語が入っていることを印象づけられていた私たちは、そこで歌われる“Anything Goes”の歌詞の中に“Love”がないことを知る。ポーターの歌とは、彼の心の伝達手段であることを改めて思い知らされるのである。すなわち、行動がどれだけ不義理であろうとも、その歌の中には彼の真意があり、本心が代弁されているという、これはアーウィン・ウィンクラーによるコミュニケーション論なのである。その意味で、ちょっとセンチメンタル過剰な『五線譜のラブレター』という邦題も、内容を適切に把握していると言っていい(原題は“De-Lovely”)。
身勝手だがチャーミングで憎めないこういう人物を演じると、ケヴィン・クラインは天才的な冴えをみせる。その魅力的な歌声もあって、最高にはまり役である。実は野心満々なのに、夫への愛ゆえに悪人になりきれない献身的な妻をアシュレイ・ジャッドがこれも魅力的に演じている。そして何より、コール・ポーターの歌をたっぷりと聴ける喜び。ミュージカルはまだまだ生きている。音楽への愛、人間への愛でいっぱいに満たされる、美しい映画である。
(2005:02.05)
『五線譜のラブレター』公式サイト:
http://www.foxjapan.com/movies/delovely/
The Cole porter Resource Site:
http://www.coleporter.org/
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