#35『ターミナル
- 缶詰の中のアメリカ -

 スピルバーグ/ハンクスの3度目のタッグ。もしかして、スピルバーグは今後の作品を、クルーズとハンクス、2人のトムを交互に起用して発表するつもりだろうか。(もちろん、それはそれでおおいに歓迎)
 『ターミナル』は、スピルバーグによる室内劇の試みである。ケネディ空港という閉ざされた空間に舞台は限定され、カメラはそこを一歩も出ることがない。逆に言うと、カメラがひとたび外に出たとき、そこが映画の終わりである。それは次のような物語だからだ。
 この映画の主人公ビクター・ナボルスキー(トム・ハンクス)は、「ある約束」を果たすために、ある東欧の小国からニューヨークにやって来る。ところが、フライト中に母国でクーデターが勃発。国そのものが消滅し、パスポートは無効。入国もできず、さりとて帰ろうにも国がない。そのため、何らかの形で身分証明が為されない限りは、空港に留まり続けなければならない。そんなわけで、空港内で野宿をする羽目になり、そこを一歩も出られないという、ほとんどカフカ的な不条理の物語なのだ。

 ビクターはほとんど英語を解さない。さりげない優しさと、左官技術だけがとりえの中年男である。つまりE.T.だ。思い起こせばトム・ハンクスは、E.T.のように、とある社会環境における異物を演じるとき、最も輝く俳優だ。魔法の力で大人になった子供を演じた『ビッグ』(1988)がそうだし、女だけのプロ野球チームで唯一の男性監督を演じた『プリティ・リーグ』(1992)、きわめつけは『フォレスト・ガンプ』(1994)だろう。『ターミナル』も、その系譜の1つに加えられる。
 当初は変な目で見られていた、文字通りのエイリアンであるビクターが、いろいろなエピソードを経て、周囲の暖かい思いやりに包まれ、本人だけでなくその周りも幸せになっていく構図。それはようするにスピルバーグの『E.T.』(1982)の物語そのものだ。だから、『ターミナル』はスピルバーグとハンクスの双方にとって、最も相性のよい題材だったというわけだ。傑作を期待しないほうがおかしい。

 この映画でスピルバーグがJFK空港に見るものは、アメリカ合衆国の縮図である。だから、空港という空間そのものが、心なくそして身勝手だ。映画の冒頭、さまざまな国からたくさんの集団が合衆国に入国してくる。それらを機械的に次々と捌く管理官たち。
 そこにビクターの登場である。要注意国からの入国者と知るや、直ちに別室に連れて行かれ、取調べを受けるビクター。英語がほとんどわからぬ彼は、まったくコミュニケーションができない。事情説明をする警備局主任ディクソン(スタンリー・トゥッチ)たちアメリカ人は、相手が言葉をわかってないというのに、英語以外の言語を使おうなどと、頭から思いもしない。わからぬ言葉を、話す速度すら変えずに相手に何度くりかえしたってわかるわけがないではないか。
 一昔前、フランス人は外国人にフランス語以外を絶対に使おうとしないなどと、よく批判的に言われたものだが、その言い伝え自体がそもそも帝国主義的だ。何のことはない、外国人に対して英語以外の言語を、絶対に使おうとしないのがアメリカ人ではないか。それは今も昔も変わらぬれっきとした事実だ。スピルバーグはまずそのことを暴き立てる。
 そのことについて、さりげないがちょっと感動する一瞬があった。ビクターと親睦を深めたメキシコ生まれのエンリケ(ディエゴ・ルナ)が、あることをビクターに報告するのに、うれしさのあまり、思わずスペイン語でしゃべってしまうのである。きょとんとするビクター。エンリケは「ごめんごめん」と、すぐ英語に戻すのだが、通じ合った者同士、自分の言葉が相手に伝わらぬはずがないという、無意識の思い込みが不意に発現する。それまで英語で通していたエンリケに、思わぬ本質が出てしまう一瞬。決してなくならぬ人間の根っこと、気心知れた人と人との交友を描いて、ここにスピルバーグの人間に対する眼差しを見る。さりげないが、見逃せないシーンだ。

 そして、それまで怪しい異邦人として、敬遠されていたビクターが、一挙に皆のハートをとらえた、ある事件がおこる。ロシアの小国からやって来た男が、違法薬物の持込みで入国拒否され、騒ぎをおこしたのだ。その外国人の通訳を乞われたビクターは、このとき咄嗟の機転をきかせてその男を救うのだが、そこで彼が見せた、「決して人を見捨てない」という心意気。これが、ビクターを英雄にまで持ち上げてしまう。
 仲間を見捨てないというのは、アメリカ人の鉄則ではなかったろうか。コマンチ族にさらわれた姪を、絶対に見捨てずに救出するジョン・フォードの名作『捜索者』(1956)から、味方の救出を至上命令とするリドリー・スコットの『ブラックホーク・ダウン』(2001)、スピルバーグ自身の『プライベート・ライアン』(1998)まで、それはアメリカ人に刻み込まれた掟のようなものだ。
 だから、異邦人としてしか見られていなかったビクターが、こうした最もアメリカ的な振る舞いをすることで、「合衆国」の一員としてみなされる。そして、このシーンで大切なことは、「合衆国」の名のもとに1つになるのが、みなマイノリティであるということだ。インド人の掃除夫、メキシコのエンリケ、アフリカ系アメリカ人の警官や審査官たち。こうしたバラバラの民族が溶け合うのである。ビクターがほのかな恋心を持ち、彼のよき理解者であるスチュワーデス、アメリアを演じるキャサリン=ゼタ・ジョーンズだってイギリス人だ、とまで言うと、こじつけになるだろうか。
 ところが、そうした合衆国化を面白く思わぬ人物がたった一人いる。それが、警備局主任ディクソンであり、主要人物の中で彼だけが、いわゆるホワイト・アメリカンなのだ(演じるスタンリー・トゥッチもニューヨーカーだ)。ここで、スピルバーグがさらに描き出したことは、そうしたアメリカ的な美徳を、最も「アメリカ人」然としている人物が踏みにじるという皮肉である(この男は、定刻になれば相手がいることも省みず弁当を食べ始めるという、ろくでもない所ばかりがアメリカ式の奴である)。
 ちなみに、ここでビクターとディクソンが揉みあう時に、偶然スイッチが入ってしまったコピー機が、ハンクスの手のひらをコピーしてしまうのだが、物語上はいささか不自然なこの細部も(そもそもなんでそこにコピー機があるのかわからない)、「さしのべられる手」という、いつものスピルバーグ的記号を示して興味深い。

 そうした描写の中、次第に浮かび上がる『ターミナル』のテーマは、「待つ」ということである。(夢の実現のためには)「待つことである」、とビクターは言うのだが、このとき不意に「待つ」という言葉をタイトルに持った、ある映画を思い出す。それはエルンスト・ルビッチの不滅の名作、『天国は待ってくれる』(1943)=原題“Heaven Can Wait”のことだ(同じ原題を持つウォーレン・ビーティの『天国から来たチャンピオン』(1978)は、それはそれで大好きな映画だが、ケタが違いすぎて比較対象外)。
 幸せ、すなわち天国は、必ず待ってくれる。スピルバーグだったら、この幸福感に満ち溢れたルビッチの傑作のことを、撮影中に思い描かなかったはずがない。『ターミナル』の幸福感は、それ故にもたらされたものだと信じるのだ。
(2004:12.24)

『ターミナル』公式サイトhttp://www.terminal-movie.jp/

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