#33『コールド・マウンテン』/『白いカラス』
- 不寛容のもたらすもの -

 快進撃の続くニコール・キッドマン。新作が待ち遠しいという意味では、いまや前夫と同格か。それにしても多作な彼女。一年中彼女の映画を見ているような気がするので、確認してみたら、なんと2002年で2本(『めぐりあう時間たち』、『バースデイ・ガール』、2003年度では3本(『ドッグヴィル』、『コールド・マウンテン』、『白いカラス』)も主演作品があった。あとの3本は、日本では今年になってからの公開だから、秋に控える『ステップフォード・ワイフ』と合わせ、今年は実に4本も、ご尊顔を拝見できるうれしい年なのだ。
 2003年度の3本のうち、2本は文芸作品となった。1本はチャールズ・フレイザー原作(新潮文庫)の『コールド・マウンテン』。もう1本は、フィリップ・ロス原作(集英社)の『白いカラス』(原作タイトル『ヒューマン・ステイン』)である。
 キッドマンは、それぞれの作品でまったく対照的な人物を演じている。『コールド・マウンテン』では気品と教養でいっぱいの、だからこそ南北戦争という非常時には生活能力ゼロの、牧師のお嬢様エイダを。『白いカラス』では、ベトナム帰還兵である夫の家庭内暴力を受け、しかも教養なく文盲ですらある薄幸の主婦フォーニアである。

 『コールド・マウンテン』は、南北戦争を背景にした、大河ロマンである。心理描写が抜群にうまいアンソニー・ミンゲラ監督は、どちらかというと『最高の恋人』(1993)や『リプリー』(1999)のように、小規模な作品に持ち味を発揮する。ところが、うっかり『イングリッシュ・ペイシェント』(1996)でオスカー監督になり、本人もそうした大河ものの方が好みと見え、そっちに手を出したがる節があるのが、少し歯がゆい思いだ。
 けれども『コールド・マウンテン』では、キャラクター重視で、なまじ大きなストーリーを構築しようとするのでなく、原作のエピソードのひとつひとつを積み重ね、結果的に長い時間の推移を構築するという作戦にでた。
 たった一度のキスが忘れがたく、相手が自分のことをどう思っているのか定かでないまま、互いに一方通行の思念を送り続けるだけのインマン(ジュード・ロウ)とエイダ(キッドマン)。戦時の混乱から便りなど相手に届くはずもない。やがてインマンは戦線を離脱し、脱走兵として故郷を目指す。一方、村に赴任したての牧師の娘エイダは、父の急死と共に南北戦争の激化。お嬢様育ちの彼女は、まるで役立たずのため困窮するが、偶然同居することになった粗野な娘ルビー(レニー・ゼルウィガー)と共に、生きる力を養っていく。再会の希望だけを胸に生き続ける、2人のエピソードを縦軸と横軸に描いた物語である。

 原作は全米図書賞も獲得したベストセラー。南北戦争へのノスタルジアに比重を置きつつ、マーガレット・ミッチェル流のロマンチシズムに、ヘミングウェイ流の骨太さを加えた大作である。(当時の食料事情とか調理法、自給自足での生活などのディテールがばっちり書き込まれていて、むしろそのへんが面白い)
 ミンゲラはこの原作を、かなり忠実に映像化している。そして一つ一つのエピソードを、戦争の見苦しさをたっぷりとまぶして示した。南も北も、どちらも信じがたく悪辣な連中である。インマンたちの村の教会に、開戦の知らせが入った時の、好戦的な男たちの醜さといったらない。また、ほとんど悪魔のような存在として登場する義勇軍。誰に任命を受けたわけでもないが、彼らは、戦線から離脱した脱走兵を駆り立て、軍法会議に引き立てる・・・のではない。問答無用で殺すのだ。同じ国民同士が殺しあう南北戦争というのも、妙な戦争なのだが、その内部でさらに同胞を殺してまわるという狂気。合衆国創成期の、こうしたイントレランス(不寛容)ないちいちが、全て個人の不幸の原因となっている。そのことを糾弾するのに、ミンゲラは、まだまだ物語の力を信じているようだ。だから気恥ずかしいまでに、ナイーブな物語作りをしているが、その志はおおいに買いたい。

 希望は「許し」にあるわけだが、その許しを表現したのが、ルビー演じるレニー・ゼルウィガーだ。当初のか弱さから、徐々に変貌するキッドマンの凄さは言うまでもない。けれども、今年のオスカー(助演女優賞)が、ゼルウィガーに渡ったように、どうしても強い印象に残るのは、この「許し」を表現する彼女の名演技だ。長年不和だった父に許しを与える時、それまで必死に彼女の自我を形成していたはずの何かが、ぼろぼろと崩れ落ちていくような、文字通りあられもない感情の爆発。ここに演技の力点を置いたところに、「許し」に対するミンゲラ監督の、未来に託す希望を見て取りたい。

 さて、そんな不寛容は20世紀、さらに言えば、21世紀になっても、どうしょうもなく残り続けていることに静かに怒りを向けるのが、『白いカラス』だ。そして、ここには残念ながら外部からの「許し」のようなものはない。
 映画の冒頭、古典文学教授コールマン(アンソニー・ホプキンス)が、できの悪い黒人(以下、アフリカ系と記す)学生に、「バカもん!」くらいの意味で、“SPOOK!”と言い放ったのがきっかけだった。これはアフリカ系アメリカ人に対する差別用語として、教授会にかけられコールマンは直ちに失職する。さらにそのショックから妻は死んでしまう。
 そんな彼が出会うのが、ベトナム帰還兵の夫(エド・ハリス)の暴力や、養父からの虐待、過失によるわが子の死など、あらゆる艱難辛苦を背負う、薄幸の女フォーニア(キッドマン)。親子ほども年齢の離れた2人だが、互いの傷心から、互いを求め合うようになる。
 で、コールマンには、もう1つショッキングな過去があって、実は彼は限りなく肌の白いアフリカ系アメリカ人で、若き日の苦い体験から、両親兄弟も捨て、そのことを(妻にさえも)ひた隠しにして生きてきたのである。

 こんな2人にとって、この世界はどれほどの価値があるというのか。とりわけ胸しめつけられるのは、自らの気持ちに整理をつけたフォーニアが、コールマンに「許し」を求めるシーンだ。けれど、ここでは彼女が許しを求めたことはどうでもよくて、2人が互いを不可欠な存在であることを確かめ合う場となった、そのキッチンの生活臭さなのだ。
 整然とあつらえられて、2人きりで生活するにはほどよい広さ。食事を作るという、生きていくためには不可欠な台所という場で、心の何かが結びつくという、その背景になぜだか胸打たれた。生きていく甲斐のない世の中だけれど、ここで手をとりあってやっていこうよ、とでもいうようなしみじみとした空気がそこに漂っている。また、2人が抱き合うとき、実にいい感じの光がキッドマンの髪に落ちていて、それがまたいい。
 そこで突然思い出す。『白いカラス』のロバート・ベントン監督の代表作『クレイマー・クレイマー』(1979)で、最も印象的だったシーンが、やはりキッチンで展開されたことを。妻に家出されたダスティン・ホフマンが、息子と一緒にフレンチ・トーストを作るシーン。映画のはじめは何一つできなかった彼が、終わりには2人きりの見事な役割分担で、朝食の準備ができるようになっている名場面。
 キッチンには間違いなく生活してきたという時間の証があって、どんなに情熱的なセックスを重ねたって、ベッドルームにそんなものは存在しない。その場面から、フォーニアとコールマン、2人の人生における新たな展開が期待できそうな可能性がそっと示される。

 現実にどうなるかは、本編を見て頂くしかないが、社会や国家、あるいは人生そのものの不寛容が、ここでもささやかな個人の幸せを根こそぎ奪うのである。悪口を書かれただけで、11歳の少女が友人の喉をかき切るような時代である。およそ今ほど社会から寛容さが奪われている時代もないような気もするが、しかしそんなことは今に始まったことではない。表現者の役割とは、それでもめげずに力強い物語とともにメッセージを送り続けることなのだろう。

 ニコール・キッドマンを共通のキーパースンとして、アンソニー・ミンゲラとロバート・ベントンが、珠玉の作品を送り出してくれた。どちらも降雪地域を舞台に、映画のエンディングが一面雪で真っ白であることは、ただの偶然か。それにしても、『白いカラス』の髪乱れた化粧っ気のないキッドマンは、またまた目がつぶれるくらい美しい・・・。いったいオレはどうしたらいいんだ!?(知るか!)
 ちなみに『白いカラス』の物語を客観的に見つめる、コールマンの親友ネイサンを演じるゲイリー・シニーズが、いつにも増してすばらしい。フォーニアの夫を演じるエド・ハリスもそうだが、彼らが出ると映画の格調が俄然高くなる。貴重な助演者たちである。
(2004:08.07)

『コールド・マウンテン』公式サイト
http://www.coldmountain.jp/
『白いカラス』公式サイト
http://www.white-crow.jp/


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