#32「スパイダーマン2」
- とても重いよ・・・。 -

 完璧。ワンシーンたりとも不満なし。このまま劇場の座席に座ったまま息をひきとってもいいくらいの幸せな映画だ。(いや、『3』を見るまでは死ねないか)

 前作では、ピーター(トビー・マグワイア)にとって最愛の高嶺の花、メリー・ジェーン(キルスティン・ダンスト)を、おずおずと見つめるかのような、彼女のアップから始まり、「これは彼女の物語だ」と宣言したものだった。今回も同様で、やはり彼女のアップから物語は始まる。けれども、今度のアップは化粧品かなんかの巨大ビルボードの写真だ。ブロードウェイのスターを目指していたメリー・ジェーンは、少しずつスターへの階段を上ろうとしている。なるほど、あれから2年がたったのだ。前作ではいい線まで行ったものの、彼女はピーターにとって、まだまだ仰ぎ見る存在だ。
 一方、親友のハリー(ジェームズ・フランコ)は、父を失う原因となったスパイダーマンへの憎しみをつのらせつつも、事業の後を継いで、青年実業家として立派なスタートを切っている。ところが、肝心のスパイダーマン、ピーターはその超能力を、宅配ピザのバイトに使っている有様。いまだモラトリアムな苦学生で、家賃の支払いすらままならぬ状況である。そんな『スパイダーマン2』は、ピーターの修行編とでも言うべき作品である。ヒーローであり続け、その責任を果たすために、全てを捨てる決断を迫られるのだ。

 実は前作では、ピーターがスパイダーマンであるとして、じゃあどうしてそれがメリー・ジェーンをあきらめる理由になるんだよという点が、もう一つピンとこなかった。その理由は『2』を見ると、実によくわかる。それは彼がとても忙しいからだ。授業に出席して、レポートを提出し、恋人のご機嫌をとって、しかも老いた叔母の世話もしながら、生活費稼ぎのかけもちバイトまであって、その上、町内の治安も守らなければいけない。いや、猫の手も借りたい忙しさで、そのへんを快調なテンポで語ってみせるのが前半である。
 忙しすぎて家庭を顧みぬ父親による家族の断絶、というのはスティーブン・スピルバーグの『フック』(1991)を嚆矢として、低レベルなところではアーサー・ヒラーの『ドタキャン・パパ』(1996)に至るまで、90年代半ばまでのアメリカ映画の重要な題材だった。(アメリカ経済が落ち込んだために、その後そうしたネタは完全になくなった)ピーターはまだ独身だっていうのに、今からもうそのご苦労を抱えている。
 また、スパイダーマンである以上、その恋人は常に悪人からの脅威にさらされている。いつ人質にとられるかわからず、従って彼女自身が彼の弱点となり得る。だからこそ決して一緒にはなれない。そのへんの説明が実に説得力あって、おかげで、ピーターの心の震えが、まっすぐこちらに響いてくる。『スパイダーマン』はアクション巨編である以上に、青春映画だったのだが、『スパイダーマン2』は、青春映画である以上に、人間ドラマだ。「選択」、それはヒーローであるかないかにかかわらず、思春期を終えようとするすべての青年が、避けて通れぬ通過儀礼である。そうしたテーマを克明に描いてあるが故に、『スパイダーマン2』は、最高に胸打たれる作品となったのだ。

 『2』のすばらしさのもう一つは、人と人との営みがこの上なく美しく描写されている点だ。長い上映時間を費やしているわけではないのに、しっかりと印象に残るエピソードでいっぱいなのだ。たとえば、後に不幸な事故からドック・オック(アルフレッド・モリーナ)に変身する、Dr.オクタヴィウス夫妻の、家庭での夕餉の描写。知的生活者の暖かい団欒が申し分ない表現になっていて、これが後の悲劇を増幅する。
 または、ピーターの誕生日祝にと、メイおばさん(ローズマリー・ハリス)が、なけなしの生活費からそっとピーターに手渡す、くしゃくしゃの20ドル紙幣。しわの多い手のひらに包み込まれた紙幣の、そのしわくちゃぶりが、また涙腺を刺激する。サム・ライミ監督は、なぜこんなにもアメリカ人の生活描写が巧みなのか?

 人間描写といえば、号泣必至の場面がある。ドック・オックの卑怯な手口によって、暴走をはじめた列車を、ピーターがスパイダー・パワーの限りを尽くして救出する場面がそれだ。『2』最大のスーパーアクションとなった、血管ぶち切れそうなこのシーンは、映画史に残る大活劇だが、この場面がすばらしいのはそれだけではない。
 素顔をさらしてまでの壮絶バトルに力尽きたピーターは、ついに失神してしまう。救出された乗客たちは、ピーターをそっと横たえ、彼の顔を見つめながら「まだほんの子供じゃないか・・・」などと、口々につぶやきつつ、そっと介抱する。しかし、そこにしつこく登場するドック・オック。倒れたピーターを拉致しようとするが、そのとき一人の労働者風の中年男が「俺を倒してからだ」と、ピーターをかばうように立ちはだかる。他の乗客たちもそれに続く。
 家に帰ればソーダとポテトチップをがっつきながら、フットボールのテレビ中継にかじりつく、おそらくは低所得の一労働者である。そんな彼が、正義のために見せる、やせ我慢というか、役立たずだけどでっかい勇気。怪人ドック・オックの敵でないことは誰の目にも、いや本人にとっても明らかだ。だから「俺を倒してからだ」、と前に出るその刹那、かすかにゴクリと生唾を飲み込む、この親父の計算しつくした演技が、実はすばらしい。これがアメリカだ、これがニューヨーカーだ、と画面全体が叫んでいる。
 アクションとアクションの合間に挿入される、これらの味わい深い描写の数々。これがあるから、アクションのひとつひとつに感情がこもる。アクションのためのアクションでなく、どうにも避けられぬ、のっぴきならぬアクションとして魂が宿っている。だからバトルシーンだというのに、いつの間にか涙が止まらなくなってしまうのだ。

 また、サム・ライミ監督、今回はスパイダーマンの視力と聴力を、一瞬で見せてしまう演出上の離れ業も成し遂げている。まずは聴力。カフェでメリーと語り合うピーターの耳に、車の急ブレーキと、空気が切り裂かれる音が飛び込んでくる。カメラはすかさずピーターの耳と、異変を察知した彼の眼をとらえる。冴え渡る音響効果!(あれは劇場でしか体験できないぞ!)その刹那、ピーターが背にしていたガラスの壁をぶち破って飛びこんでくる車。正面と横からのカットでつなぐ、編集とスローモーションの完璧さ!
 それから視力。先に紹介した列車暴走シーンがまさにそれ。線路の先は切れていて、ハドソン川にまっさかさまという、列車の行き着く先を、先の先を見通すスパイダーマンの視力が、何キロもの線路を一瞬にしてたどって、終点まで見せてしまうその映像マジック。なるほど、CGもこういう風に使うならば映画技術の進歩もおおいに価値あり! と思わされる。ともかく、約2億ドルという制作費のかけ方が、おそろしく的確なのだ。

 それにしても、ピーターの育ての親、メイおばさんを演じるローズマリー・ハリス。今年77歳というのに、今回ワイアー・アクションまでこなして大奮闘である。芸達者なキャストをそろえた『スパイダーマン2』だが、最年長出演者として、すばらしく上品な演技を見せる。
 先にあげた誕生祝の20ドル紙幣の場面もすばらしいのだが、ピーターが実はスパイダーマンと気づいているのかどうかを、微妙に漂わせつつ、悩める彼に、ヒーローの大切さを説いて聞かせるシーンの何とも細やかな演技。アカデミー賞選考委員は、今年のアカデミー助演女優賞の筆頭に、彼女を選ぶだけの眼力があるだろうか。『3』はもちろんのこと、そちらの方もおおいに期待したいところである。
(2004:08.05)

『スパイダーマン2』公式サイト
http://www.spider-man.jp/
*関連リンク:シネクリティーク#17 スパイダーマン

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