#30「エレファント」
- 暴力の芽は摘み取れるか?-

 『ミスティック・リバー』、『ドッグヴィル』に続き、さらに暴力に関する試論ともいうべき映画、『エレファント』が登場した。実は2003年のカンヌ映画祭には、この3本がそろって出品されている。そしてパルムドールは『エレファント』が獲得した。『ミスティック・リバー』が重厚な人間ドラマであり、『ドッグヴィル』が悪魔的なおとぎ話だとすれば、これは小さな芸術作品だ。カンヌらしさで言うならば、的確な結果ではないだろうか。
 上映時間ではくらべものにならない。『ミスティック・リバー』の138分、『ドッグヴィル』に至っては177分という堂々たる長さに対し、『エレファント』はわずかに80分。今の映画の平均値からみてもかなりの短さだ。しかしこれほど濃密な80分もまたない。

 物語は、マイケル・ムーアも『ボーリング・フォー・コロンバイン』(2002)で扱った、コロンバイン高校銃乱射事件に基づいている。コロラド州の小さな街の平凡な高校で、2人の生徒が銃を乱射し、多数の犠牲者を出したあげくに自殺した、衝撃的な事件である。
 冒頭から「ごくごく平凡な」高校生活が描写される。アル中の父を持って苦労している少年。カメラマンになる夢をもって、せっせと作品を撮りためている堅実な者。モテモテのスポーツマン…。さらに、母親をうざったがってる少女たちの果てしない愚痴のこぼしあいや、性的潔癖症で図書館の虫の少女に、オタクないじめられっ子たちなど、様々に描写が積み重ねられていく。いずれも「よくいる少年少女たち」だ。しかし、ラスト15分、突然のすさまじい暴力が、この静かな高校に吹き荒れることになる。

 私は実はこの映画を、まったく予備知識なしに見た。いや、何かで読んでいたはずなのだけど、それをすっかり忘れていて、最初の1時間(ということは、上映時間を考えるとほとんど全部だ)は「いや、実に生々しいハイスクール・ライフのドキュメント風・フィルムだなあ」と感心しながら眺めていたにすぎない。それが、いじめられっ子2人組が通信販売でライフルを購入するあたりから、風向きが変わり始めた。普通の一般家庭に、しかも高校生受け取りで、宅配便で銃が届くのである。まるで『ボーリング・フォー・コロンバイン』にでも出てきそうなエピソードだ。(『ボーリング…』には、定期預金の講座を作ると、粗品に銃をくれる銀行が登場する。もちろん実話)あとは、あれあれと思っている間に、ラストの惨劇へとなだれこんでいってしまう。その衝撃ったらなかった。まさしく、青天の霹靂に起こったコロンバイン事件の衝撃を、じかに体験したようなものだ。
 偶然とはいえ、そんな見方をしたために、思いがけず理解できたような気がする。一人ひとりの少年少女の中にひそむ「鬱屈」というものに、年長者がいかに盲目であるかということに。私自身も先に、「よくいる少年少女たち」とあえて書いたのだが、本当は彼らのことは徹底的にケアして、フォローしてやるべきなのだ。沸々と煮えようとする彼らの憤懣を、私たちは「よくあること」として、ほったらかしにしてないか。「どんな学校にも1人はいるでしょう?」と、気にすることすら忘れてはいないか。

 ガス・ヴァン・サントは、淡々と描いているようで、実は恐ろしく切れるナイフのように、少年少女たちにカメラを向けている。静かに潜む彼らの傷の一つ一つを、まるで指紋でも残すかのように、フィルムに刻んでいくのである。
 たとえば、遅刻常習者のジョン(ジョン・ロビンソン)は、今日もそれを校長に責められる。だが遅刻の理由はアル中の父親の世話で、普段いかに気丈に振舞っていても、そのストレスがどれほど強いかは、恋人の前でふと見せる涙で気づかされる。その他、親への文句は、年頃の少女たちの常だろうが、存分にデザートを食べたあと、化粧室で食べたものを吐き出すとなると、これはどこか心の病だ。または、潔癖なあまり体育の時間に短パンをはけず、体育の教師に説教され続けている、内気な少女ミシェル(クリスティン・ヒックス)。
 そして、最も陰のなさそうな、カメラマン志望の少年イーライ(イライアス・マッコネル)。彼ですら、どこか乾燥した内面が感じられてならない。たとえば、現像するフィルムを水洗いしているシーン。そこがまた不自然に長いのだ。無表情に現像缶を振り続けるその様子がどこか寒々しい。無駄に時間を使っているだけなのではないかという、少年の将来への不安がかすかに見えるのは気のせいか。実際、あれだけシャッターを切っているにもかかわらず、イーライが撮影した写真など一枚も画面に登場することはない。
 それぞれの心の中に隠された、こうした黒い部分。これこそが後に破裂するかもしれない、「暴力の芽」というやつではないのだろうか。今回、その「芽」が無差別殺人として花開いた土壌は、たまたまオタクないじめられっ子ではあったが、それはあくまで偶然であって、事件を起こすのはジョンでもイーライでもあり得たのではないか。ここまで見てくるとよくわかる。暴力を噴火させる潜在性は、どの子供にもあるということが。

 ちなみに、2人の少年は殺人の決行直前にシャワーを浴びる。そのとき、全裸の2人は「まだしたことがないんだ」と、キスを交し合う。実行のあと、自殺を決意している2人の最初で最後であるはずのこのキスに、同性愛的な印象は希薄だ。これは女子生徒に声もかけられないであろう彼らの、普段からたまりにたまった性欲のやむなき解消だ。あれだけのことをしでかそうという彼らにあって、女生徒を銃で脅してレイプする、といった程度の勇気(?)は、なぜかない。彼らのそれだけ根深く、どす黒い心の闇をここに見る。
 監督ガス・ヴァン・サントが描こうとしたものは、どれだけ平凡な少年少女たちの内面にも、必ず頭をもたげているはずの、こうした「暴力の芽」である。それを描く演出の恐るべきナチュラルさ。この映画に出てくる生徒たちは全員素人で、そのエピソードの多くは、彼ら自身の体験を反映しているという。しかし、そうした点を越えた生々しさがある。この子たちは、校舎内の長い長い廊下を、てくてくと本当によく歩く。また、カメラもそれをいつまでも追いかける。確かに学生の時って、いつもいつも廊下を歩いていたような気がする。『エレファント』のリアリズムは、そうした風変わりな視点に基づいており、その独特の切り口が、この作品にアートとしか言いようのないルックスを与えている。
 テロとか戦争とかの大きな暴力を止めるには、個人の力はあまりに無力かもしれない。が、『エレファント』が描いた、各個人に潜む潜在的な暴力なら、少しの配慮によって、あるいは根絶やしにできるのではないか。無関心とはある意味、逆説的な暴力だ。摘んではいけない芽がある一方で、ぜひ摘み取るべき芽だってあるのだ。それは『エレファント』が描いたように、あちこちに偏在する一方で、しかし必ず目に見えるものなのだ。

 ところで『エレファント』にはアル中の父親役として、1人だけ職業俳優(ティモシー・ボトムズ)が登場している。この厄介親父を演じるボトムズがまた、びっくりするくらいブッシュに似ているのだ。間違いなく意図的であり、このことがまた痛烈な現代アメリカの風刺になっていることは、一言しておきたい。
(2004:04.24)

『エレファント』公式サイトhttp://www.elephant-movie.com/


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