何をどうごまかしたか、カンヌのパルムドールまで受けてしまった、ラース・フォン・トリアーの前作、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』。偽悪的で、いたずらに生理的嫌悪感を催させる、とにかく最低の作品だった。いや内容以前に、この上なく見苦しいビョークの顔を3時間近く見つづけるのは、ほとんど拷問だ。そんなわけで、なまじっかなことでは、トリアーの新作など見るつもりはなかったが、今度の主演はニコール・キッドマン。美貌、演技ともに最盛期にある彼女の近作を見逃せるはずがない! そこでキッドマン見たさに、いそいそと足を運んだ『ドッグヴィル』である。
そんなわけで、もともと不純な動機で見始めた『ドッグヴィル』だったが、これはしかしニコール抜きだったとしても、すごい作品だ。ほぼ同時期に作られた、クリント・イーストウッド『ミスティック・リバー』が、暴力に耐え忍ぶ人間像を描いた傑作だったとしたら、『ドッグヴィル』は、それとはまた別の視点を与えてくれる秀作だ。
イーストウッドがそのフィルモグラフィーで描き続けているのは、「暴力の連鎖」である。暴力が暴力を生む、果てしのない殺し合いという意味で、彼の映画はきわめてアメリカ映画的なのだ。一方のトリアーは、デンマーク出身のヨーロッパの映画作家だ。そして、『ドッグヴィル』は、構想しつつあるUSA三部作の第一作目とのことであり、トリアーはこれを皮切りに3本のアメリカに関する映画を作るという。アメリカを訪れたことのない彼が(トリアーは極端な飛行機恐怖症で、アメリカには行けないらしい)、アメリカを舞台に暴力を描く場合、それは人間という存在そのものに、必然的に備わったバイオレンスへの嗜好を描くことになる。それは暴力の連鎖なんかではない。ほっといても暴力は自然発生し、ウィルスのように蔓延していくのである。
舞台は大恐慌時代のアメリカ、ドッグヴィルという村。住人は数えるほどしかいない。そこにギャングに追われているとおぼしき美女グレース(ニコール・キッドマン)が、助けを求めて逃れてくる。村のご意見番的な存在で、一目で彼女に恋心を抱いた二流作家のトム(ポール・ベタニー)は、村全員で彼女をかくまうことを提案するが、その条件として出されたのが、2週間以内に村人全員が彼女を気に入るというものだった。
そこで、グレースは村人全員のために奉仕労働をすることになり、多忙を極める。その甲斐あって、彼女も村に溶け込むかのように見えたが、そうはいかなかった。この村にあって美しすぎるグレースは、次第に男どもの露骨な欲望の対象となり、女たちからは嫉妬の的となる。ギャングによって彼女に賞金がかけられていることを知る村人たちは、それをほのめかしつつグレースを徹底的にしごきぬく。しかもそれは無意識に、あふれでる悪意なのだ。村を出ることも許されぬカフカ的な状況の中、彼女はついに逃げられぬよう鎖にまでつながれ、文字通り犬のように扱われるのである…。
グレースが受ける凄惨な暴力の嵐は、とても正視できるものではない。しかし、それに瞳をこらさざるをえないよう、トリアーは驚くべき手法を用いた。それは映画の舞台の極端な演劇化である。それがおおいに話題になっている、白線だけで示した壁も屋根もない舞台と、必要最小限のセットと小物。すべてパントマイムで演じられる、特異な演技表現。そこにあるのは演技のみである。
『ドッグヴィル』は、映画の美術が、いかにスクリーンを見つめる視線を拡散しているかを、発見させられた。私たちは映画を見ている間、とてもたくさんのものを同時に見ているわけである。俳優の演技、顔、衣装、セット、小物、背景、(洋画なら)字幕…。それらを一瞬のうちに同時に見てしまう、「包括的な視線」を持った天才ならよいのだが、ほとんどの人間の場合そうはいかない。『ドッグヴィル』は、俳優以外のものを、画面からすべてとりはらってしまったのである。そうすると、私たちは、ドッグヴィルの住人たちの振る舞いを、目をこらして見つめるしかない。それができない者は、劇場を後にするのみだ。
だからこの映画は、否応なしに発生する恐るべき暴力の奔流から目をそらすことを許さない。この極端にシンプルな画面設計は、ドラマ以外のことを考える余地を与えず、人間の醜さを凝視せよと言わんばかりの、ほとんど力づくの演出である。言うなれば、この演出方法そのものが暴力的なのだ。
さて、村人たちのこの恐るべき暴力に対して、罰が与えられぬはずはないのだが、それはどのようにくだされるのだろうか。その方法と論理が決定されるのは、車のバックシートである。『ミスティック・リバー』でも、車のバックシートに乗せられ、誘拐される少年の心の傷が悲劇の始まりだった。悲劇にケリをつけるため、その少年は大人になって再びバックシートに乗せられ、その運命が決められてしまう。また、『ドッグヴィル』もそれは同じ。最後の審判は車の中でくだされるのだ。
イーストウッドとトリアーという、およそ共通項のない2人。そんな彼らが、自動車のバックシートという共通の空間から、映画におけるバイオレンスを考察するとは、不思議な偶然である。
充実しきった、ニコール・キッドマンの透明感あふれる聖性は、忘れ難い印象を残す。彼女の真っ白いブラウスが汚されるとき、彼女の清潔感あふれる髪が苦悩と暴力に乱れるとき、画面に生々しい痛みが走る。しかも美的な構成も忘れられていない。特に、ドッグヴィル脱出の期待を胸に、トラックの荷台にかくれ、りんごに埋もれながら束の間の眠りにつくキッドマンの美しさはたとえようもない。ちょうど、ラファエル前派の画家、ジョン・エヴァレット・ミレイが描くところの「オフィーリア」を思わせる色彩美だ。
それにしても、徹底的な性悪説に貫かれた『ドッグヴィル』は、やはり見るのがつらい作品である。無からわき出る起源なき暴力、それが人間の本能だと断言されているからだ。ドッグヴィルの住人たちの暴力はたしかにすさまじい。けれどもそこに悪意はなく、多くの場合無意識だ。無意識である以上、それは人間の本質という他ない。「アメリカ」が舞台であることから、カンヌではこの作品に対して批判の声も出たと聞く。しかし、そんな不平を漏らすほどに思い上がった人間こそ、ドッグヴィルの住人たちと同じだ、ということを知るべきである。また、それこそがトリアーの狙いであって、彼はそうした批判の目を、逆に私たち観客に対してこそ向けているのだ。心して見るべき傑作である。
(2004:04.09)
『ドッグヴィル』公式サイト:http://www.gaga.ne.jp/dogville/
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