#27「ミスティック・リバー」
- 審判するのは誰なのか-

 クリント・イーストウッドは、映画におけるバイオレンスについて、他のどんな映画人よりも長く深い考察を重ね、かつ攻撃も受けてきた映画人である。そんな彼の、これはおそらく一つの達成だと思う。暴力は人類が存在し続ける限り決してなくなることはなく、人はその業に耐え抜くしかない。その耐え抜くことの痛みを、執拗なまでに痛々しく描いた作品。それが『ミスティック・リバー』である。

 イーストウッドはいつでも、暴力がまた次の暴力を生む、無限の暴力の連鎖を、最後に一発の銃弾、または一撃の鉄拳で(暫定的に)終わらせてきた。しかし、それは究めて帝国主義的な力の行使だし、何よりそれはイーストウッドという特権化された肉体と顔の持ち主だけに与えられた、他の誰とも交換不能なライセンスだ。ところが、テロリズムの前に大量破壊兵器が意味をなさないのと同様に、この時代にあってはクリント・イーストウッドという絶対神をもってしても、暴力の連鎖を止めることは出来なくなってきた。その意味で、イーストウッドは名作『許されざる者』(1992)から、もう一段ステップアップする必要があった。『許されざる者』のジーン・ハックマン演ずる「悪」は、表面上、正義の顔をまとっており、それに対して暴力でケリをつけたイーストウッドは、もう一度それに対してNGを出さなければならなかったのだろうと思う。
 力による決着が、人間をどこにも導かない以上、暴力の発生する根源をもう一度探求しなければならない。自らの拳銃すらも、暴力を終わらせる手段とはできないなら、『ミスティック・リバー』という作品にイーストウッドは出演しない。監督として、コントロールするのみである。そのため、暴力は誰の手によっても終止符を打たれることなく、宙吊りにされるのだ。
 彼が演出だけに徹しているのは、そもそもの原作(デニス・ルヘイン)にイーストウッドが演じるべき役柄がないから? もちろんそんな単純な問題ではない。『マディソン郡の橋』(1995)ですら、原作の設定年齢を無視して自ら主演してしまう男である。必要とあらばイーストウッドは必ず出演する。本人は監督も主演も両方やるのはキツすぎるから、などと肉体的な問題でごまかしているが、しかし終りなき暴力のその絶望性を語るには、イーストウッドその人は、ぜひともカメラの後ろにいなければならないのだ。

 物語は何ともやるせないものだ。少年時代、歩道で遊んでいた3人の少年。そこに刑事を装った男たちがやって来て、3人のうち1人を車で連れ去ってしまう。4日後、少年は逃げ戻ってくるが、その4日間の間に(性的な虐待を受けたことが暗示される)受けた心の傷は一生消えないものとなる。やがて彼らは25年後に再会する。1人は娘を殺された被害者、1人はその事件を追う刑事。そしてもう1人は、殺人の容疑者として。
 この3人は、今でも折に触れて悩み続けている。もしあの時、連れ去られたのが自分だったら…。しかし、そんな仮定の想像をいくらしてみても、事態はいささかも変わらない。実際に車に乗せられたのはデイブ(ティム・ロビンス)であり、それは変えようのない事実なのだ。『ミスティック・リバー』が強調するのは、そうした取り返しのつかなさだ。
 そのことを比喩的に暗示するシーンは冒頭に2つある。1つはホッケー遊びに興じる3人が、路肩の排水口にボールを落としてしまう所だ。落ちてしまったボールはもう2度と取り出せない。ずっと後に、成長したデイブは自分の息子にも、「そこには数え切れないほどのボールが落ちているはずだ」などと伝える場面をわざわざ用意してさえいる。
 もう1つは、まだセメントが生乾きの舗装中の道路に刻んだ自分の名前だ。ささやかな子供の悪戯だが、3人の子どもが順々に名前を彫り、最後にデイブが自分の名を入れている途中の、まさにその時に連れ去られるのである。セメントが乾いてしまえば、道路そのものが壊されない限り、刻みかけのまま残されたデイブの名前は永遠に残り続ける。
 いかにも暗示的なこの2つの挿話は、実はデニス・ルヘインの原作『ミスティック・リバー』(ハヤカワ文庫)にはない。イーストウッドは原作をほとんど変更することなく映画化しているが、こうした起こってしまったこと、つけられた傷の不可逆性に、より敏感に反応している。このことは必然的に、当然ではあるがものすごく大切な、次のような真実に行き当たるからだ。それは、死んだ人間は絶対に帰ってこない、ということである。
 だから、娘を殺されたジミー(ショーン・ペン)の嵐のような怒りが、痛烈に真に迫る。イーストウッド映画で、これほどまでに煮えたぎった、激流のような怒りと哀しみの爆発は、あまり見覚えがない。そして、やってしまったことは絶対に元に戻せないからこそ、ラストのジミーとショーン(ケビン・ベーコン)の路上(それは彼らがかつて遊び、また、デイブが連れ去られたまさにその路上だ)での対話が一層沈鬱さを増す。これほど絶望的で救いのない場面は、めったに見ることができないのではないか。私はこの文の冒頭で、この映画が耐え抜くことの痛みをこの上なく痛々しく描いた作品であると書いたが、その暴力の影響に、この映画のキャラクターたちは歯をくいしばって耐えている。

 イーストウッドの意図とは違うのかもしれないが、この映画からは「絶対に殺すな」というメッセージが聞こえてきてならない。『ミスティック・リバー』では、本来ならイーストウッド自身が演じたであろう、刑事という役回りを、今回はケビン・ベーコンが引き受けている。全編中、ベーコンは一度も銃を構える場面はなかった。もちろん、一発も撃っていない。いや、実は一発だけ撃っている。ラスト、指先を銃の形にし、見えない拳銃の見えない弾丸で、間違いなく相手の心臓を貫いている。殺さぬ銃弾。もしかしたら、これはここ10年間くらいのイーストウッド作品における重要なテーマかもしれない。『ミスティック・リバー』はおそらくその総決算だ。全作品が最高傑作であるイーストウッドだが、その中でも究めつけの一本である。

 今年のアカデミー賞では、ジミーを演じたショーン・ペンが主演賞を、デイブを演じたティム・ロビンスがそれぞれ助演賞を獲得。けれど個人的には、ショーンを演じたケビン・ベーコンも評価して欲しかった。先にも述べたが、今作においてベーコンは、出演していないイーストウッドの代行という、大変な重責を負っていたのだ。この映画における理性を体現する人物として、最もバランス感覚を要したはずの彼の演技はもっと脚光を浴びていいと思う。
 ちなみに、キネ旬ムック フィルムメーカーズL『クリント・イーストウッド』所収の、鼎談『彼は「アメリカ」を超えていく』において、芝山幹郎が「僕は、ケヴィン・コスナーじゃなくて、ケヴィン・ベーコンあたりにイーストウッドの跡を継がせたい」(P.152)と語っている。このムックの発行は2000年なので、『ミスティック・リバー』はまだ企画もないころ。その時既に、こんな発言をしていた芝山の慧眼に、瞠目せずにはいられない。
(2004.3.31)


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