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それにしてもトム・クルーズという俳優はすごい。もちろん、作劇上のいろんな意味で、『ラスト サムライ』を完璧な作品ということは難しい。たとえば、クルーズ演じるオルグレン大尉が日本に渡るという、この作品を支えるために最も重要な動機付けが甘い。または、この物語の語り部となる、ティモシー・スポール演じる通訳者の役柄に奥行きがまったくなく、彼自身、自分がどのように演じるべきか、とまどっているようにさえ見える。
しかし、そうしたいくつかの欠点を補って余りあるのが、ほとんど神にも等しい圧倒的存在感で屹立する主演者トム・クルーズだ。そして、これは映画史をふりかえっても、クルーズだけが為し得る離れ業なのだが、主演者として自分が十分に輝きつつも、その一方で助演者を輝かせる「引き」の演技の鮮やかさ。なるほど、最後のサムライを演じる渡辺謙はよくがんばっていて(そもそもタイトル・ロールである「最後の侍」とは彼のことだ)、ほれぼれする武士っぷりを見せている。
ただしその輝きも、あくまでトム・クルーズの補助があってのことで、そうした見えない部分で発揮されている彼の能力こそ、もっと語られるべきだ。ここで言っておきたいのは、マスコミがやっているように、『ラスト・サムライ』を語るうえで、およそ渡辺謙に目を向けるほど凡庸なことはない、ということだ。作品そのものの水準を上げるために、助演者のレベルを最大限引き上げようと努めるのがクルーズの演技だ。トム・クルーズ出演作の水準が、他のどの俳優に比べても、ダントツに高いのはそのせいだ。
『ハスラー2』(1986)のポール・ニューマンを皮切りに、『レインマン』(1988)のダスティン・ホフマンといい『ザ・エージェント』(1996)のキューバ・グッディング・Jrといい、トム・クルーズの共演者のオスカー獲得率が、際立って高いことを改めて思い出さなければならない。特にホフマンの演技については、クルーズの聡明な助演がなければ、アカデミー賞はまずなかったと断言してもいい。
そんなトム・クルーズの演技の極意は、たとえば自分よりもはるかに身長の高い渡辺謙との背丈の差が、はっきりとわかるようなショットをまるで怖れていないところに表れる。普通なら、主演者の方が背の低いことがあからさまにわかるような構図などもっての他。たちまちNGである。ハンフリー・ボガートは、間違ってもそんなことはさせなかった。ジョン・ウェインはただでさえ巨体のくせに、その上セットを小さめに作らせさえした。しかし、トム・クルーズは長身の渡辺謙と堂々とツーショットで並んでみせる。それによって、渡辺謙演じる勝元という武士が、人間としても戦士としても巨大なことが否応なしに伝わってくる。これがお膳立てというものだ。
最強の剣士・氏尾を演じる真田広之に対しても同様である。真田は身長こそクルーズよりも低いくらいだが、身体能力で圧倒的に勝ることを再三強調する。活目すべきは、剣の技を磨くオルグレンと氏尾が、いよいよその腕を競い合う試合のシーンだ。普通なら腕を上げた主演俳優たるクルーズが、ついに勝利してドラマのカタルシスを生み出すというのがセオリーだ。しかし、オルグレンは勝たない。負けはしないがとにかく勝たない。その息詰る試合シーン(ユーモアと緊張感の配分が絶妙な名シーンである)を見つめながら、ここで痛快に勝ってしまうようならトム・クルーズじゃない! とハラハラしたのだが、予想通りの結果となって我が意を得たり! と大いに満足したものだ。さすがである。
こうして、クルーズは周囲の俳優すべてに花をもたせるわけだが、それもこれも最後の最後には自分自身が、映画を支配してしまうことを十分知ってのことである。トム・クルーズが、終盤に天皇と謁見するシーンがそれだ。圧巻という他ない。刀を捧げ持ちつつ、目を涙でいっぱいにして、武士道の精神を懇々と天皇に説くクルーズの長い長い独白の見事さはどうだ。脇役たちを十分盛り立てた後のこの場面、まさに映画の神がクルーズの瞳に宿る。映画史上唯一無二の大スターだけの持つ、まぶしいまでの輝きがスクリーンを覆い尽くす。この瞬間、あれほど生き生きと活躍していた勝元も氏尾も、ドラマ上の「思い出」として後退する。そして当然それはそうなるべきだ。失われる旧式な美徳を哀悼するドラマである『ラスト サムライ』にあっては、それを体現する武士たちの姿は最後には遠くに、ただし美しく退けられなければならない。もちろん、それには彼らへの強い印象と、それが失われることへの深い痛みの念を伴わなければならないが、ここまでのクルーズの繊細な配慮によって、それは完璧に達成されている。
私たちは今こそトム・クルーズに対する過小評価に対して、徹底抗戦しなければならない。それにしても、『ラスト サムライ』について、きちんとクルーズを評価しているのが、『Invitation』1月号の蓮實重彦だけというのはどういうことなのか。逆にいうと、映画ジャーナリズムは、トム・クルーズの擁護まで、蓮實の力を必要とするのか。最悪なのは『文学界』1月号の「蓮實重彦×阿部和重 3時間徹底討議全収録」の阿部和重だ。たくさんの言葉を費やして、俳優としてのトム・クルーズを「えこひいき」する蓮實に対する、阿部の無関心ぶりは明らかだ。彼をはじめとする、黒沢清や青山真治、塩田明彦、安井豊ら『ロスト・イン・アメリカ』(デジタルハリウッド出版局)の、若い世代の徹底したトム・クルーズへの無関心ぶりは目にあまる。いや、言うなれば彼らは映画スターそのものに対する審美眼がごっそり欠如している。『文学界』は、映画批評は今になってもなお、蓮實重彦なしには、何もできないことを思い知らされた記事である。最近ようやく開設された蓮實批評のHPタイトル*をもじって言えば、彼らに「映画を愛しているとは言わせない」。深い憤りをもって、阿部たちをぶっ叩かねばならない。奴らに映画を語る場を与えるな。
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話が主演者のことに傾きすぎたが、異文化世界に入り込んだ主人公が、未知の風習・思想に触れて覚醒するという、『ラスト サムライ』の主題は、かつてケビン・コスナー監督・主演による『ダンス・ウィズ・ウルブス』(1990)と同じであることは、既にあちこちで指摘されている通りだ。19世紀後半という時代設定や、主人公が南北戦争体験者であることや、日々の驚きを主人公が細かくノートしていることまで一緒だ。しかし、この2作品には微妙だが決定的な違いがある。
『ダンス・ウィズ・ウルブス』のケビン・コスナーは、「こんな○○は初めてだ…」と繰り返し口にしたものだ。初めての風景、初めての他者。あの映画でコスナーは、まったく白紙の状態からネイティブ・アメリカンの生活を吸収していったのだ。だからバッファローの勇壮な群れを見つめるコスナーの瞳は、赤ん坊のそれに等しいものだった。
一方、『ラスト サムライ』のオルグレンが、繰り返し口にする言葉は「学びたい」である。たしかに武士の生活はアメリカ軍人であるオルグレンにとって、未知のものかもしれない。けれど、それは白紙ではなかった。なぜならそれは、オルグレンが密かに追い求めていた「理想」そのものだったからである。言葉にならず、それがどんなものかはわかっていなかったかもしれないが、そうした理想郷があるはずだ、という憧れがオルグレンを支えており、漠然とそれを見出そうとしていたのである。「思いがけず」理想と向かい合ったコスナーと、探索の末ついに見出したクルーズの、そこが大きな違いである。だからオルグレンは決して「こんな生活は初めてだ」などと口にすることはなかった。おそらくは彼にとって武士の生活とは、ある種の既視感をもって受け止められたのではないだろうか。非道徳的なアメリカでの戦闘体験が、トラウマとなってオルグレンを責めさいなむが、ここには、ストイックで一貫性ある道徳的な世界が広がっている。
これが理想のものであるから、それを破壊する勢力にはあえて命を賭しても闘う。戦闘への動機付けがここに立派にできあがる。オルグレンはここで「理想」を、「愛する人」と言い換えて、勝元の妹であり、自分が殺した武士の妻であるたか(小雪)に語りつつ戦場に赴くだろう。
オルグレンは、自らの理想を体現する、いわばドッペルゲンガーとして、勝元を見ているとも思えてくる。「会話を楽しみたいのだ」と口癖のように勝元はオルグレンに言うが、勝元もオルグレンも、どう見ても会話を楽しむタイプではない。それなのに、2人が語り合うのは、相手の文化を知りたいという以上に、今まさに時代とともに滅びようとする互いの理想が、間違いではないことを確認しあうためであったようにも思うのだ。刀折れ、矢尽きた勝元と、まるで抱き合うようにして、最期を迎える姿はいよいよ2人が1つになる、ある意味幸福な瞬間と言えないだろうか。文化と文化が出会って1つに溶け合うその姿には、武士道を殲滅しようとする新日本政府軍ならずとも、頭をたれるしかない。
およそ「話し合う」という風潮など、現在の合衆国にはかけらほどもないが、『ラスト サムライ』を通して、本来人類が人類としてあるべき姿を再考してもよいのではないか。もちろんそれは武士道なんかである必要などない。武士道というテーマはあくまできっかけとして、健全なグローバリズムを、オルグレンという人物像は体現している。折り重なって倒れるオルグレンと勝元の姿はそのイコンである。
現実には実現できそうにない崇高さを表現できるのは映画だけである。どれだけ映画の中で理想を語っても、誰も困らないし、誰も傷つきはしない。もしも映画によって小さな理想の種が蒔かれるのなら、それこそ映画のささやかな勝利であるし、実はそうした伝道師としての役割を映画は本来担うべきなのだ。そんな使命を遂行する作品として、『ラスト サムライ』は見事な内容を持っている。あまり触れなかったが、日本人が見ても違和感のないよう、真面目に注意深くこの大作をコントロールしたエドワード・ズウィック監督の手腕もおおいに讃えなければならない。本人にとっても快心作のはずだ。また、トム・クルーズ作品としても、アメリカ映画としても誇るべき傑作である。
(2003:12.26)
* 「あなたに映画を愛しているとは言わせない」
>> 「ラスト サムライ」オフィシャルサイト
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