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Mr.N' CineCritique
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#24「マッチスティック・メン」
〜相性のいい、詐欺と映画〜
『グラディエーター』(2000)、『ハンニバル』(2001)、『ブラックホーク・ダウン』(2001)と、大予算の作品が続いたリドリー・スコットが、突然思いもかけない小品を送り出してきた。しかも、古代ローマだの、ソマリアの戦場だのといった、ややこしい設定でなく、ロスの普通の住宅街サンフェルナンド・バレーが舞台である。
けれども、これがどんな内容の映画か、と問われると答えにつまる。おそらく配給会社が最も困るタイプの作品だ。マッチスティック・マンとは「詐欺師」のこと。だから詐欺師が主人公の、痛快サスペンスかというと、必ずしもそうではない。むしろ、父と娘との触れ合いを描いた、ヒューマン・タッチな作品のような気もする。さりとて、神経質な主人公のブラック・コメディだと言われれば、そんな気もしてくるし、テーマが実に散漫なのだ。
だからつまらないか、と言われれば断然そんなことはなく、上映時間があっという間に過ぎるほど、観客の興味をつなぐ技術にソツはない。そう、このソツのなさ。リドリー・スコットといえば、意匠を凝らした映像作りが身上だ。しかし、『マッチスティック・メン』は、そんな彼が初めて、純粋にシナリオに書いてある「物語」を語ろうとした映画だ。これまでのように、すさまじいまでの映像美で、強引に観客を引っ張っていくのではなく、悪く言えばそうした目くらましを禁じ、「こけおどし」を一切使わないという点で、これはある意味、リドリー・スコットの冒険だ。
冒頭は、詐欺師ロイ(ニコラス・ケイジ)の、精神病スレスレの、極端な潔癖症ぶりの紹介だ。室内での土足は厳禁。カーペットには塵ひとつあってはいけない、野外恐怖症、などなどなど。詐欺師としては超一流だが、あまりの神経質さがまた弱みとなっている。
そんな神経症を治すべく、精神分析医とトラウマの原因を探ると、別れた妻は離婚当時自分の子供を妊娠していたことを思い出す。初対面を果たした娘アンジェラ(アリソン・ローマン)は、もう14歳になっている。血のつながりは争えないのか、彼女とは意外なほどウマが合い、結局一緒に暮らすようにさえなってしまう。ここから、娘がかわいくてしかたがない父親としてのロイと、アンジェラとの描写が続くが、このあたりはまるでファミリー・ピクチャーのような趣を見せる。
そんな娘のため、足を洗おうと決意したロイは、相棒のフランク(サム・ロックウェル)と、最後の大ヤマに打って出るが、そこから先は二重三重のどんでん返しな展開となっていく。
この作品の成功のカギは、極端な描写、つまりは過剰さを可能な限り排したことだ。すべてをいい意味でほどほどに抑えている。だから心地よく映画のリズムに乗っかることができる。ロイの病的な潔癖症も、ニコラス・ケイジの演技がやりすぎになるギリギリのところを見切っているので、作品へのユーモアとしていい感じの味つけとなっている。
ロイとフランクの詐欺の手口も、大掛かりなものとはほど遠く、これも荒唐無稽になるギリギリの見極めができているため、ほどよくリアリティがある。特に娘に乞われるがまま、ついつい教えてしまうスピードくじを使った詐欺テクニックの面白さは絶品だ。この場面がいかにできがよいかは、作品がPG12(12歳未満保護者の指導必要)に指定されてしまったことからも明らかだろう。なぜなら、年端もいかない少女でも、いかにもやれそうな手口であるが故に、幼い観客への影響を懸念したのだ。
これまでリドリー・スコットが失敗したのは、『1492コロンブス』(1992)にしても『白い嵐』(1996)にしても、彼特有の表現的過剰さに徹しきれない時だった。にもかかわらず、今回成功したのは、そうした過剰さと過少さとの境目、ギリギリのところの計測が完璧だったからだ。そこの見積りさえ明晰かつ正確であれば、華麗なカメラワークや、技巧をつくした構図などなくても、じゅうぶん面白い映画になる。実弟トニー・スコット(『トゥルー・ロマンス』(1993)あたりから一皮むけたのだと思う)が、実はとっくにマスターしていたそんな美徳を、リドリーもついに身につけたことを、おおいに歓迎したい。
こうした計算の確かさは、映画全体の印象に対してもよい影響を与えている。この映画の物語は、人と人との何ともしれないハートウォーミングな展開を見せつつも、その一方で実に後味の悪い要素もあわせ持っている。けれど、それがどちらか一方に印象が傾くことはなく、それこそギリギリのところで踏みとどまるのだ。物語の要素として、温かさと非情さが共存しているとき、それは「ほろ苦さ」となる。
『マッチスティック・メン』は、物語全体がほろ苦さをたたえた、辛口のコメディだ。特記すべきは、未来への希望と不安が、1つのフレームの中に溶け込んだラストシーンのすばらしさである。このシーンのイメージが、頭に浮かんだとき、リドリー・スコットは自分でも大いに満足したに違いない。問題は表現するニコラス・ケイジがそれをどれだけ上手くやれるかだ。もちろん、ケイジほどの芸達者がそれをしくじるはずがない。結果はご覧の通り。作品全体のイメージがこの一場面に凝縮された見事な幕切れだ。
(2003:10.13)
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