CineCritique
*
#23「ソラリス

今の時代に二元論を拒む勇気

 実際に見るまでは少しだけ不安だった。アンドレイ・タルコフスキーの大傑作『惑星ソラリス』(1972)をリメイクするという企画そのものの無謀さ。165分というタルコフスキー作品の雄大な長さに対して、『ソラリス』はわずか99分しかなく、大切なことを表現し損ねているのではないかという心配。そして全米公開時の批評・興行両面での惨敗ぶりである。ところが、この映像世界に心を奪われてしまうのに上映開始後10分もいらなかった。才人ソダーバーグのフィルモグラフィに、また1つ大傑作の追加である。

 この作品はしかし、アメリカでほとんど無視されて当然だと思う。この21世紀になってなお、世界を敵か味方か、善か悪かといった、およそ5歳児にも劣る二元論を振りかざして、恥じ入る様子のない合衆国民に、『ソラリス』のメッセージなどわかるはずがない。いや、この作品を理解できるような国民なら、そもそもあんな連中に国政を任せるもんか。これはある意味、痛烈な体制批判であると感じたのは少し乱暴だろうか。
 『ソラリス』が描くのは、世界は2つに分けられるほど単純なものではないということである。二元論に対する徹底的な嫌悪。中間地点を選択することの意味論である。極と極のどちらかではなく、あいまいな中間点という、第三の選択を行うことの勇気。そして、人間とは本来そういうものではないのか、という考察である。

 話そのものは、ソダーバーグ版とタルコフスキー版に大きな違いはない。惑星ソラリスの探索に行ったチームが交信を閉ざしてしまう。それを救出に行く学者ケルヴィン(ジョージ・クルーニー)は、そこでとんでもない現象を体験することになる。惑星ソラリスの磁場は、近づいた者にとって最も大切な、しかし死んでしまった人物を、蘇生させてしまうのだ。ケルヴィンには、愛の至らなさから、かつて自殺に追いやってしまった妻レイア(ナターシャ・マケルホーン)が蘇る。怖れをなした彼は、「妻」を脱出用ロケットに閉じ込めて、宇宙空間に捨ててしまうが、眠りから目覚めるとまたしても彼女がそばに寄り添っている。彼はどのようにこの「妻」と接するべきなのか。。。
 基本的な展開が同じとはいえ、タルコフスキーの『惑星ソラリス』は、彼の他の作品同様、ノスタルジーについての映画だった。ソラリスの海による超常現象をはるか超えて、二度と再び帰ってこないもの、すなわち少年時代、夢、国家、自然の営みといった自分自身を形成した諸々を、巨人的なビジョンのもとに描いた、壮大なモノローグである。
 もとよりソダーバーグは、そうした神の如き視座を持つ芸術家ではない。スケール感には恵まれなかったが、優秀な映画作家である彼は、もっと小さなもの、けれど人間にとって不可欠な、愛の形を表現しようとしている。そしてそれは、タルコフスキー版の変奏曲として、おおいに価値ある作品となった。上映時間は短いけれど、短くてじゅうぶん。描くべきことはすべて描いていて、そこに作劇上足りないものも過剰なものもまったくない。

 ソダーバーグといえば、会話シーンの描写に抜群のセンスを発揮するのだが、彼が特に好んで使うテクニックがある。それは、2人の対話において、話している側の人物は映さずに、逆に話を聞いている方の人物の顔をじっと撮るという手法である。このやり方は、どこか客観的な印象を与えながら、けれどキャメラは話者の視点に立つために、親密な感じをも同時に付加するという、独特の雰囲気を作り出すことができる。『ソラリス』では、特にそれを多用している。
 ケルヴィンは相手にあれこれと話しかけて、疑問を解き明かそうとするのだが、発話者であるケルヴィンの声は、画面の外から聞こえてきて、本人は画面に映っていない。話す側がスクリーンにいないということは、話の内容を受け止める聞き手の反応、つまり心の揺れ動きが、はっきりと目に見えるということだ。
 平行して描かれるのは、過去における妻との出会いと、愛の芽生え、そしてその崩壊である。しかし妻が死んでしまった以上、やり直しも、償いもできず、ケルヴィンは深い悔恨とともに生きている。この過去を、幻想性とリアリティを絶妙にブレンドして、巧みに描いているので、妻との「再会」のショックが実に痛々しい実感として感じ取れる。
 米山俊哉は「…私(ケルヴィン)に会う前にあなた(レイア)が体験したことの記憶とかは、私には知ることができない。もし、私の精神があなたを「作りだす」ことができるのであれば、それは私が知っている範囲の、主観的な一面だけを備えたあなたでしかない。だから、作り出されたあなたにとってみれば、多くの記憶は欠落し、自分が一体どんな人物であるのかさえ判然とはせず、あたかも記憶喪失のような深い恐怖を覚えるに違いない。」(括弧内筆者)と書いており、なるほど、そういう読みがあるか! とおおいに蒙を開かされたが、そうすると、いったい愛情の対象となるのは、相手の何なのかという、掘り下げれば終わりのない存在論の話にもなりそうだ。

 しかし、2人きりで生きながら死に、死にながら生きる。ソダーバーグが提示するのは、そんな1つの提案だ。彼が偉大なタルコフスキー版から抽出したのは、そうした愛の形である。日本では北野武が『DOLLS』(2002)で描いたのもそれと近い世界観だったが、『ソラリス』は北野作品の悲劇性とは無縁となっている。投げかけられた問いと対話の果ての、それ以外にはないという積極的な選択であり、これはとてもシニカルだが、しかし壮大なハッピーエンドではないだろうか。
 冒頭にも触れたが、生も死もどちらも選択しないという、これはまったく新しい選択肢である。宇宙船内の他の乗組員は、自殺を選ぶ者、蘇った者らをためらわず抹殺できる右派の女性科学者など、いずれも二元論の世界観で生きている。ソダーバーグはこのあたりの性格付けを意識的にわかりやすく描いているようだ。そして、ケルヴィンの行う第三の選択がどんなものなのかは、直接映画を見てほしい。とにかく集中していないと何かとても大切なものを見落としてしまいそうな1時間39分なのだ。

 派手なアクションとも目を見張るSFXとも無縁で、これはたしかにヒットは難しい。けれど、脚本も兼任したソダーバーグの世界観とビジュアリストとしてのセンスには、脱帽するしかない。さらに驚くのは、おそらく実製作はノータッチにちがいない、ジェームズ・キャメロンがプロデューサーとしてクレジットされていること。キャメロンが映画に不納得なら、名前を出さずにいることも、手を引くことも可能なわけで、堂々と製作を遂行したその理解に拍手である。たぶん配給元20世紀FOXの背広連中は、タルコフスキーの名前など誰も知らず、キャメロン/ソダーバーグ/クルーニーというビッグネームの組み合わせによるボロもうけだけを夢見たのだろう。そして、キャメロンたちは見事に興行と無縁の映画を作り上げ、あからさまに現政権支持のFOX社に遠まわしの嫌がらせをしたのかも。そのへんが、『ソラリス』は手の込んだ政権批判であると感じた一因である。
 しかしながら、アメリカばかりもバカにはできず、やれやれ実は日本の劇場も見事にガラガラだった。『ソラリス』は確かに娯楽作品とは言い難いが、スクリーンをじっと見つめるならば、投げかけるテーマの大きさに感動せずにはいられないはずである。ソダーバーグのこれは堂々たる代表作の1つだ。
(2003:07.04)

[参考]
・公式サイト「SOLARIS--ソラリス--」
・アンドレイ・タルコフスキー監督作品「惑星ソラリス」作品解説
・原作:スタニスワフ・レム著「ソラリスの陽のもとに」

eriko's notes : 残念ながら未見です。N氏の言われるようにそんなに劇場がガラガラでは、いつ上映が打ち切られるかわかりません。観に行けるかな?
* * *
 主だった劇場では上映が終了してしまいましたが、なんとか観てきました。
 それはそれは胸が痛くなるほどのラブストーリー、SFという無機質な舞台が精神的な愛を引き立てています。愛しあう二人の一方がいなくなった喪失感とその修復、そしてお互いの幸せとは…クル−ニ−演じるケルヴィン回想シーンにはいつも雨が降っています。愛するレイアを失ったケルヴィンに降る雨は悲しく、見ているものの胸をしめつけます。そして映画のラストでは雨音は聞こえてきません…ケルヴィンの悲しみは終わったのでしょうか?答えは観客にゆだねられているのでしょうが、そんな単純なものではありません。人を好きになることについて考えることになります。(あれ、N氏と同じことを言ってる?)
 ケルヴィンが宇宙ステーション・
*プロメテウスに到着した時、少年の姿を見ます。この少年は映画の終盤に再度登場します。彼はジバリアンの息子ということですが、同時にケルヴィンの後悔を実像化したものかもしれませんね。(07.21)

*プロメテウス:ギリシャ神話で、人類の滅亡を企む神が人間との食べ物の分配を決める時に、人間の味方をしてゼウスの裏をかいた神族の一人として登場する。怒ったゼウスが人間から火を取り上げるが、プロメテウスは奪われた火を人間の手に奪い返した。


CineCritique menu <-- 22 <-- here --> 24

home