CineCritique
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#22「めぐりう時間たち」

映画は知性でつくられる

 スティーブン・ダルドリー。そんな非常に美しい名前を持つ監督が、『リトル・ダンサー』(2000)という、この上なく美しい処女作を発表したのはもう2年も前のこと。(早いなあ)そして、今度もまた狂おしいまでに美しい第2作『めぐりあう時間たち』を作り上げた。
 20年代イギリス、50年代ロサンゼルス、そして現代のニューヨークと、時間も場所もちがう3人の女性の物語が交錯しながら、ヴァージニア・ウルフという、これも非常に美しい名前を持つ女流作家の長編小説『ダロウェイ夫人』をキーに展開していく。
 描かれる3つの時間と場所を1つに束ねる、官能的で美しい音楽はフィリップ・グラス。これまたとても美しい名前の作曲家だ。従来のミニマリズム的な手法を最大限に生かして、グラスにしては思いがけぬほどロマンチックな響きで、画面に生命を吹き込んでいる。

 20年代、小説『ダロウェイ夫人』の執筆にとりつかれつつ、神経を病むヴァージニア(ニコール・キッドマン)。50年代、漠然とした不安の中で死に魅入られるローラ(ジュリアン・ムーア)。そして現代、エイズに蝕まれたかつての恋人の介護をする編集者クラリッサ(メリル・ストリープ)。
 この3人の、あるたった1日だけの物語が平行して描かれる。その中で、彼女たちの同性愛者としての嗜好と、各々の時代におけるその受容のありかたも、1つのテーマになっている。思えば同性愛というのは、不治の病としてのエイズのメタファーであると共に、決して受胎を伴わぬ性行為であるが故に、自ずと死をはらむものではないだろうか。
 完璧な演技をみせる3人の女優たちが演じる人物は、いずれも限りなく死に接近している。彼女たちの苦難は、いかに生きるべきかがわからないというその1点に尽きる。精神的な平安を得るために、どうあるべきなのかあまりに無知なのだ。クラリッサだけは自ら死を志向してはいないものの、死にゆく友人の詩人リチャード(エド・ハリス)との関係における、適切な距離感をどうしても捉えられない点で、自ら死を引き寄せてしまっている。

 いかに生きれば楽になれるかということについて、映画は答えを出さない。正確に言うと、答えは絶対に出ないのだということを言わんとしている。3人の女性について、場所と時代を変えて描いているのはそれを示すためだ。
 たとえば、都会(ロンドン)の花形として執筆活動、つまり仕事がうまくいけばヴァージニアは幸せになれるのだろうか。ゲイとしてカミングアウトしてしまえば、ローラは楽になれるのだろうか。しかし、それはあり得ないことを、NYの編集者として仕事で成功を収め、かつ堂々と女友達とも同棲しているクラリッサの生き様がそれを示している。では、夫に愛され、自然妊娠で(クラリッサは人工授精で娘を産んでいる)子どもに恵まれればクラリッサは幸せになれるのか。やはりそうではないことを、ヴァージニア、またはローラの生き方がそれを表している。
 生きることは必ず何らかの欠落を伴っている。感性に恵まれた者はその欠落感と共存できない。しかし凡人はその欠落とほどほどに折り合いをつけ、それなりに生きていくことができる。そんな役回りにあるのが、たとえばヴァージニアの夫であり、子宮ガンの告白をするローラの隣人であり、クラリッサを訪ねて来るリチャードの元恋人ルイス(ジェフ・ダニエルズ)だったりするわけだ。しかし、3人の女性たちにとってそうはいかない。息をひそめて、その欠落に耐えねばならないのだ。

 真摯に生きようとする者にとっては、時代が変わろうと場所が変わろうと、居場所はどこにもないのだろうか。病の進む詩人リチャードは叫ぶ。「何もかも書きたかった。ある一瞬のすべてを」。しかしそんなものは決して書けはしない。もし書けるのならば、理想的な居場所、生き方も見つけられるはずだからだ。
 しかし、ある瞬間にリチャードは一瞬のビジョンを幻視する。それはリチャードの人生にとっての全てであると同時に、映画の大どんでん返しにもなっているので、ここでは書けないが、その刹那にリチャードは全てを知覚する。この時にうっすらと流すリチャードの涙は、全編中もっとも胸しめつけられるシーンの1つだ。
 監督のスティーブン・ダルドリーがこだわってこだわって映そうとするのは、その目が何を見ているのか、見つめるその目の先である。そしてそこから時にあふれる涙である。幼いローラの息子が(この子もすごい存在感だ)母親を見つめる目のみずみずしさと透明感は見事な絵になっている。
 そして感情があふれる瞬間に思わずほとばしり出る、マウス・トゥ・マウスのキス。マイケル・カニンガムの原作(集英社刊)になくて、ダルドリーの映画化にあるのは、これら流れる涙の美しさと、口から口へのキスについての感受性だろう。それらは彼女たちがゲイであることをほのめかす仕掛けになっているが、それ以上に、愛情表現についてあまりに無知である彼女たちの、他に表現しようのない感情の奔流として描かれている。どうしても「ゲイ小説」の作家としてカテゴライズされがちなカニンガムだが、ダルドリーの聡明な演出によって、ここではそうしたジャンルの枠を完全にブレイクしている。

 また、この作品全編を通して印象的なシーンは数え切れないほどあるのだが、とりわけ記憶に残るシーンが1つ。巣から落ちて死んでしまった雛鳥の死骸をじっと見つめながら、ともに横たわるヴァージニア。雛を見つめる彼女の目と、生気を失った雛の目とがからみあい、生と死の境を穿つ不穏な空気が画面を覆い尽くす。超一級の芸術家だけに許される見事な描写だ。そして、横たわるヴァージニアの目は、そのまま時空を越えて、ある1つの決断を下したローラの目とシンクロする。その後、生と死のドラマの圧倒的なクライマックスがやってくる。息をもつかせぬドラマの急展開ぶりだ。
 それにしても隅から隅まで見事な芸術的高みを達成した、まちがいなく今年のナンバーワン候補。完璧かつ究極の1本である。
 今や向かうところ敵なしのニコール・キッドマンはついにオスカー獲得。気持ちとしてはジュリアン・ムーアにもメリル・ストリープにも与えたい気分だが(人によってはムーアの演技をより高く評価するかもしれない)、個人的にはやはり、感情の起伏に応じて瞳の色まで変わっていくかのようなキッドマンの神がかった恐るべき演技に1票!(鼻は特殊メイクで作ったらしい) アカデミー賞レースは『シカゴ』が制した格好だが、ほんとは『めぐりあう時間たち』の方がはるかに高級。それにしてもアメリカ映画の底力はおそろしい。こんな時代になってもなお、これほどの秀作を誕生させるのだから。
(2003:6.26)

[参考]
・原作-マイケル・カニンガム著「めぐりあう時間たち-三人のダロウェイ婦人」
・オリジナルサウンドトラック・PHILIP GLASS「THE HOURS」
  http://www.warnermusic.co.jp/philipglass/
・公式サイト「めぐりあう時間たち」

eriko's Notes : 異なった時代に生きる3人の女性、ヴァージニア、ローラ、クラリッサ…彼女達はいわゆる「普通の人々」ではありませんが、それゆえの問題を抱えながら、自分の在り方を絶えず自分自身に問いかけ、それぞれの人生を選んでいきます。そこに描かれるの心の揺らぎにどこか共鳴するのでしょうか、心がしめつけられます。(俳優達の演技の素晴らしさに加え、たたみ掛けるようなフィリップ・グラスの音楽が気持ちを高ぶらせます)性的嗜好や自殺願望などは彼女達の一面でしかありません。個の人間としていかに生きるかということに真摯に向かう姿は、誰にも共感できると思います。
 また、選択した人生がどうあれそれは自分で背負って行くということが突き付けられるのですが、何となく日々を過ごしてしまっている私自身に活!です。


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