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dog biscuit
Mr.N'CineCritique
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#20「チョコレート」/「イン・ザ・ベッドルーム」

そして人生は続く

 2001年のカンヌ映画祭パルムドールは、我が子の唐突な死を描いたナンニ・モレッティ監督『息子の部屋』だった。そのこととは何の関係もないけれど、今年のオスカー・レースを賑わせた2本の作品も、やはり息子の死がテーマとなっている。
 ハル・ベリーが黒人女性(本当は白人との混血だけど)として初のアカデミー主演女優賞を獲得した『チョコレート』と、無冠に終わったが主要部門を独占でも決しておかしくなかった『イン・ザ・ベッドルーム』の2本だ。もしかしたら、今の映画作家たちにとって、身近な者の死に伴う「喪失感」というのは共通に心ひかれるテーマなのかもしれない。
 けれど、結局は「癒し」などという、
かなりお粗末な結論に逃げた『息子の部屋』なんかにくらべ、この2本の方がはるかに成熟している。なぜかというと、『チョコレート』も『イン・ザ・ベッドルーム』も、この生にあって魂の「救済」などはどこにもなく、残された命には、ただ日々のみがひたすらに続くのだという、時間そのものを扱っているからだ。

 『チョコレート』の主人公ハンク(ビリー・ボブ・ソーントン)は、息子(ヒース・レジャー)とともに刑務官として働いている。彼の父親(ピーター・ボイル)はきわめて強権的、かつ極端な人種差別主義者で、その考えを家族に強引に押し付けて家庭は息苦しいことこの上ない。リベラルな息子は、それが軟弱だとして父と祖父には蔑まれている。母親(主人公の妻)は、生活に耐え切れず逃げ出したと見え、家には女性的な暖かさなどかけらもない。この匂ってくるような男所帯の描写には目を見張るものがある。
 ある日、黒人死刑囚の刑執行がある。精神的に死刑執行の立会いに耐えられなかった息子をハンクは痛罵するが、ついに逆ギレした息子は、ハンクの目の前で自らの頭を撃ち抜いてしまう。一方、死刑囚の死後、残された妻レティシア(ハル・ベリー)は食いつなぐため、息子と必死の生活を続けるが、その少年も交通事故で死亡する。そのときたまたま通りかかって病院に運んだのがハンクであり、そのことをきっかけに彼女との愛が芽生えるのだが、実はレティシアの夫を刑に処したのはハンクであることを彼女は知らない…。

 この作品がR18(18歳未満の入場不可)の指定を受けた訳は、ハル・ベリーのすさまじくリアルなセックスシーンにある。全編べったりと死に覆い尽くされているこのドラマにあって、積極的に生きていきたいと思っている者は、鼻持ちならぬ独善者であるハンクの父をのぞいて一人もいない。しかし年若いレティシアは、魂では死を求めつつも、肉体は否応なしに生き延びることを欲している。頭で死を願っていても、自分の中の何かが死を拒絶している。身体の中でせめぎあうこうした矛盾の暴発が、この壮絶な肉欲シーンに結実する。そして、この描写が強烈なショックを与えるのは、目を疑うほど見事なプロポーションを持つハル・ベリーだからこそである。どんづまりの人生にあって、そのはちきれんばかりの体はそれでも活動の停止、すなわち肉体の死を許さない。この上なく唯物論的な肉体なのだ。まったく無意味としか思えない生を続けているハンクも、(彼の場合、息子の自殺にそれほどのショックも感じていなさそうなぶん、より心理状態は複雑だ)そんな肉体と出会うことによって、生きる必然性をまさぐっていく。
 ハル・ベリーは『ソードフィッシュ』(2002)でも、一度見たら生涯忘れられないような、とてつもなくデラックスなヌードを披露してくれたわけだが、あれはあくまで男性観客のための出血大サービス。しかし、『チョコレート』のそれは深くドラマに密着し、なくなってしまえばテーマそのものの存亡に関わるものだ。『ラスト・タンゴ・イン・パリ』(1973)、『美しき諍い女』(1991)などの例外をのぞき、そんなに深い内容の裸身はめったにない。

 この人たちが生きている理由はなんなのか、と考え込まずにいられない。その時この作品が伝えてくるのは、「それは今自分は現に生きているからだ」という、人生の最もシンプルな鉄則である。彼らにとってのささやかな幸せは、だから夜にしかおこらない。それは自分自身、または愛する相手とだけ向かい合える唯一の時間である。他人と接触しなければならない昼のさなかにはだいたいろくなことが起こらない。けれど、夜の前後には必ず昼がある。そしてもちろん、昼の前後に必ず夜があり、結局はその総体が人生なのだ。

 次に、「喪失」を経験した者にとって、そうした昼間の時間がいかに癒し難く、耐え難いものであるかは、『イン・ザ・ベッドルーム』が描いてくれるだろう。
 初老のファウラー夫妻(シシー・スペイセク,トム・ウィルキンソン)には、将来有望な一人息子(ニック・スタール)がいる。けれど、ひとつ大きな悩みどころは、彼が子持ちの女、ナタリー(マリサ・トメイ)にぞっこんであること。しかも彼女には暴力夫がいて、まだ別れられないようなのだ。母ルースは息子とナタリーを別れさせたくてしかたがないが、父マットは鷹揚にかまえている。やがて、母親の予感は的中するというべきか、暴力夫リチャードと言い争いになった息子は、彼に撃たれて死亡する。しかし、欠陥だらけの法律はその暴力を不可抗力とし、リチャードを放免としてしまう。息子への暴力が裁かれることなく呆然とするファウラー夫妻とナタリー。
 いかんともしがたい感情がもつれあって、持って行き場のない怒りが静かに渦を巻く。母、父、愛人、それぞれ立場は違うが、哀しみを共有している点で一致する。だからこそ互いが互いを傷つけあうものの、それがいかに不毛であるかは、めいめいがよくわかっている。しかし言わずには済まず、ぶつけずにいられぬ感情がそこにある。誰にとっても明るい未来など訪れようもないが、そんな中、ついにマットはひとつの決断を下す…。

 身近な者の死後、どう振舞おうとも否応なしに続いていく人生。この作品の中で、もっとも残酷なシーンは、息子を射殺したリチャードの部屋に入ったマットが、壁にかかった写真を目にするところだ。その写真には、まさに息子が愛した女性ナタリーが、彼を撃った暴力夫といかにも仲睦まじげに抱き合っている。おそらく彼らの新婚時の写真だろう。息子の知らぬ時間がかつてそこ(ここ)にあったという生々しい実感。写真の彼女の笑顔がいかにも天真爛漫で愛くるしく、そんな写真を目にする父の気持ちがいかに推し量り難く、どれほど複雑な想いがあふれるか、これ以上はないほど雄弁に見せてくれる。百万語を費やしても書ききれない心の動きを一瞬でとらえてしまう。これこそ映画の力だ。すごい。

 『チョコレート』に『イン・ザ・ベッドルーム』、いずれも人生の悲劇に接した時、癒しなど訪れようもなく、哀しみと怒りは沈まず漂うことを見せつけてくれる。まるで双子のようにテーマを共有するこの2本は、いつまでも胸に反響し続けるドラマだ。とにかく俳優陣の演技がすごい。多くのギャラは見込めないだろうに、全員が誠実そのものの仕事をしている。
 それにしても、『チョコレート』を演出したマーク・フォスターが1970年生まれで、『イン・ザ・ベッドルーム』のトッド・フィールドが1964年生まれ。いずれも30歳半ばのとっても若く経験も浅い監督だ。それなのに、まるで70歳を過ぎた老巨匠が扱うような重厚なテーマを扱っていることに驚いてしまう。どちらもまさに入魂。大力作である。
(2002:10.27)

eriko's Notes : オスカーレースのときから気になっていた2本の作品ですが、情けないことに両方とも未見なのです。ビデオになってしまうでしょうが、体力気力共に充実しているときに、しっかり観ようと思っています。


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