原作ものというと大抵そうだが、特にコミックを原作とした実写映画化作品というのは、まずまちがいなくオリジナルのイメージなど微塵もなくなっているものだ。たとえば『めぞん一刻』(1986)の石原真理子にしても、音無響子さんがあんなしゃべり方をするはずないじゃないか! 『生徒諸君!』(1984)での小泉今日子などほとんど犯罪だ! 『はいからさんが通る』(1987)の南野陽子がどんなにどんなにかわいくても、あれを許すほど寛容にはなれないし、『アイドルを探せ』(1987)の菊池桃子だって同罪だ。だいたいどいつもこいつも、当たり前だが顔がちがう! なんだか世代がバレるような作品ばかり列挙してしまったけれど、最近の藤原紀香、稲森いずみ、内田有紀の『キャッツ・アイ』(1997)にしたって、いくらゴージャスっぽくても、そもそも企画からして論外と言いたい。
そんな悪夢のような前例を連想しつつ、最初に『ピンポン』の予告編を劇場で見たとき、まずあっけにとられたのは、出演者全員のルックスが、あきれるくらい原作のキャラに似ていることだった。一部に熱狂的な支持を集める松本大洋の、大胆にデフォルメされつつも奇妙なリアリズムを感じさせる、独特のタッチで描かれた人物たちがそのまま抜け出してきたような感覚。しかも主役のペコを演じる窪塚洋介の見事なシルエットでキメたアクションに、何だか体の奥がざわつきはじめ、傑作の予感がびんびん漂っていたのだ。
いざ本編に接して、予想をはるかに超える出来映えに驚いた。最高にワクワクさせられ、幸せな気分いっぱいで劇場を後にすることができたのだ! なまじ『ビッグコミック・スピリッツ』連載時に、原作『ピンポン』を読んでいたので、どうしてもオリジナルと比べての観賞となったが、もし原作を読んでない人が初めてこの映画に接するときは、この極端に浮世離れしたキャラたちに入り込めるかどうかが、評価の分かれ目となるだろう。実際、『群像』10月号時評での山根貞男のように、窪塚洋介のテクニカルな演技に辟易する評もみうけられた。そしてそれはまあ、わからなくもない。
ただ、書かれたダイアログを自分の口になじませることにかけて、ずば抜けた天分に恵まれた窪塚のセリフ回しはやはりスゴイ。彼が演じるペコという高校生は、いろんな地方の方言を混ぜこぜにしたような変なしゃべり方をするわけだが、窪塚のしゃべりを聞いて、「なるほど、 ペコはこんな風にしゃべっていたのか!」と膝を叩かずにはいられなかった。原作のキャラを知っている人間にとって違和感がまったくないのだ。あの奇抜な日本語が、人が書いたものでなく、今まさに窪塚の口から生れ落ちているかのような現実感がある。
だから、山根貞男が窪塚洋介の演技に向けた否定的な発言はお門違いで、単に原作のキャラを受け入れられなかっただけのことである。もちろん山根貞男は日本で最も信頼できる批評家の1人だが、こういう不用意な発言に接すると、青山真治ならずとも「老いたか!?」と思いたくもなる。
それはさておき、窪塚だけでなく、この映画の快挙は、ARATAや、中村獅童、大倉孝二ら、役を完璧に自分のものにしている見事な出演者たちの演技アンサンブルである。パーフェクトなキャスティングで作られたこの映画は、いささか箱庭的で、イメージがスクリーンの外にあふれ出していくようなスケール感とは無縁といえ、見事に血の通った登場人物たちによって、画面全体がどきどきと脈を打っているかのようだ。
卓球で「この星の一等賞」を目指すペコと、その幼なじみの天才スマイル(ARATA)、最強の卓球の求道者ドラゴン(中村獅童)、ペコとスマイルの幼なじみアクマ(大倉孝二)、中国からの卓球エリート、チャイナ(サム・リー)の間で展開する試合で、実力の序列は刻々と変化していく。ぺコを「ヒーロー」と見なし、常に最強であることを願うスマイルを中心に、その序列はシャッフルされる。かつていじめられっ子で、その都度ペコにかばわれ、卓球の手ほどきも受けたスマイルの、「カッコ悪いペコを見るのが」イヤだという感情が、すべての試合の気分に影響を与えている。そしていったん壊れた序列が、本来あるべき順番におさまろうとする過程が、この映画のストーリーであり、骨組みとなる。
そしてそのためのシナリオ上、または演出上の基本方針は、キャラへの接近と乖離の絶妙な間である。ある時には、キャラの心情にぐっと肉薄し、ある時には残酷にぽーんと突き放す、その呼吸の的確さだ。
当初、ペコは鼻持ちならぬうぬぼれ屋として登場する。この人物をきらいにまでなることはないものの、少なくともこいつが最強というのはどこか間違っているはずだ、と思わされる。従ってペコはこてんぱんに敗北するが、このあたりからスマイルの目とともに、ペコというキャラに対する興味はいったんぐっと失せてしまう。すなわちペコからのズームアウト(乖離)である。
一方、ペコに勝利したアクマはスマイルの才能への嫉妬から、彼に挑戦試合を申し込むが、スマイルは苦もなくアクマを退ける。モーツアルトに対するサリエリの嫉妬のように「なんでオレでなくお前なんだよ!」と苦悩するアクマの心情ゆえに、映画はぐっと彼にズームイン(接近)するが、ヤケになって起こした暴力沙汰をきっかけに、アクマに据えられていた目線はまた急速にズームアウトする。
選手5人の中での心理ゲームから、唯一圏外にいるかに見えるスマイルも、コーチ(竹中直人)との関係の間で微妙な心情的変化を余儀なくされていく。
以上はほんの一例だが、こうしたキャラへの接近と乖離のドライブ感が、描写のメリハリというやつである。ストーリーラインはもちろん原作と同じなのだが、その骨格を巧みに抜き出したのは、脚色の宮籐官九郎の功績だし、カメラを向けるべき人物のセレクションに1ミリのミスも犯さなかった手際は、演出の曽利文彦の手腕だ。
ちなみに監督の曽利文彦、これがデビュー作だそうだが、『タイタニック』のVFXスタッフとしての参加経験を大きく喧伝されており、その折り紙つきのCG技術は『ピンポン』でもいかんなく発揮されている。とはいえ、そんなことは作品の良し悪しとは無関係だ。実際どれだけ直接の交流があったのか知る由もないが、曽利が『タイタニック』の監督であるジェームズ・キャメロンからばっちり学んだと思われる点は、完璧な絶望を完璧なシチュエーションでストーリーに組み込む手際である。
まさに『ピンポン』でも、苦難の末に編みだしたペコの裏面での渾身の一発が、ドラゴンに苦もなく破られる瞬間の絶望感。「付け焼刃の裏面、私に通じるなどと決して思うな!」と仁王立ちするドラゴン。ペコの勝利への希望が砕け散る、このへんの呼吸は間違いなくキャメロン直伝のものだ。
それにしても、作品名はいちいちあげないが、いつまでたっても反共的で、対戦相手を「悪」として描かねばストーリーを構築できない、ハリウッドのスポーツものの作者たちに見せてやりたいような作品である。
ちょっとエネルギーが落ちているとき、生活がマンネリぎみのときには『ピンポン』の劇場へGO! 最高のパワーチャージャーとして元気付けてくれること間違いなしだ。
(2002:09.25)