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dog biscuit
Mr.N'CineCritique
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#18「スター・ウォーズ/エピソード2 クローンの攻撃

襲いかかる過去

 「…これが記憶であり、極めて危険なものなのです。なぜなら、あなたが記憶を自由に使うのではなく、記憶があなたを使い、うち負かすのです。
 記憶が危険だということを想い出すべきなのです。記憶は人をそのなかに誘惑し、とりこむのです。…」
このように語るのは、イタリアの哲学者マッシモ・カッチャーリだ。(『批評空間』2002。‐4所収「アナロジーの論理学」より)
 記憶の哲学に関する考察である、カッチャーリの一連の発言は、もちろん『スター・ウォーズ』とは何の関係もなく、対象への愛(エロス)を追求する上で、いかに記憶(過去)が我々を呪縛するかについて、歴史家アビ・ヴァールブルク(1866〜1929)の思想に則して語ったものである。けれど、この発言が占星術との関連をふまえながら、次のように続くと、それはまるで「スター・ウォーズ・サーガ」のことを指しているように聞こえてしまう。
 「…それは星による支配のテーマです。これは占星術では大きな問題です。過去のもたらす重要なイメージはまさに、ギリシャ語の意味での問題、プロブレーマでした。つまり過去のイメージはわれわれに「襲いかかる」のです。
 (中略)それぞれの星とその星が表象するイメージには、必ず光の当たる明るい面と光の当たらない暗い面の二つの面があります。これはそれぞれ人間の魂の明るい面と暗い面とに対応しているわけです。…」
期せずして、「フォースの暗黒面」の核心にまで触れているかのような、このカッチャーリの言う「襲いかかる過去のイメージ」。これこそまさに『エピソード2』のテーマそのものではないだろうか。

 アナキンが後のダース・ベイダーであることを承知している私たちにとって、彼の悪への萌芽がどのような形で現れるのか、そこが『クローンの攻撃』の興味の焦点だったはずだ。
 そこで目にすることになるのは、このヤング・スカイウォーカーが、いかにも古い記憶にさいなまれ、過去の呪縛にがんじがらめになっている姿である。公開当時は漠然と納得するしかなかった、『エピソード1』のサブタイトル、『ファントム・メナス』の意味が、今ならはっきりとわかる。「ファントム・メナス」、すなわち「見えざる脅威」とは、まさしくアナキンが抱え込んだ「過去」であり、「記憶」のことだったのだ。(それにしても“Phantom Menace”というわかりにくい原題を、カタカナ表記にしただけの邦題は、いかにも配給の怠慢というほかない)

 登場するや否やアナキンは、冗談まじりとはいえ、師オビ・ワンに、あのとき助けてやってどうしたこうしたと古いことばかり持ち出している。アミダラとの再開に際してもなお、この10年間ぼくは彼女を片時も忘れたことがなかったのに、彼女はそうでもなさそうだなどと、ぶちぶちボヤいてみせる。それどころか、故郷に残してきた母親のイメージには、毎夜夢でうなされる始末。過去にしがみつき、その中で生きる少年のイメージが周到に描かれる。
 この子はあまりにも過去の記憶にこだわりすぎる。強力なフォースを持ち、血気にまかせた無鉄砲であるがゆえに、(後にヨーダが『帝国の逆襲』で、アナキンの子ルークを指して「こらえ性のない子じゃ…」と嘆息するシーンを思い出さずにはいられない)その呪縛とこだわりはいっそう強い。オビ・ワンにしてみれば、感情すらもコントロールできるジェダイ騎士として、そのへんが未熟だというわけだが、アナキンはあまりにも 過去のイメージにとらわれているので、聞く耳をもてない。
 模範的なジェダイであるオビ・ワンに、過去を思わせる描写が皆無なのは、従って当然なのだ。ハンサムなユアン・マクレガー扮するところの、オビ・ワンのロマンスのひとつも見てみたい気がしないでもないが、「ジェダイは恋をしてはならない」という掟は、要するに記憶や過去にとらわれないための戒めであるようにも感じられる。ヨーダもメース・ウィンドゥ(サミュエル・L・ジャクソン)も、最強のジェダイは見事なまでに「現在」しかないキャラクターだ。
 そんなオビ・ワンが、アミダラを狙う暗殺者の手がかりを得るために、図書館へと足を運ぶのは、いかにも象徴的である。(この図書館が、見るからに全宇宙の知識のすべてを収蔵しているようで、すばらしいプロダクション・デザインになっている)壮大な記憶の倉庫ともいうべき図書館において、消された記録(記憶)を復元することで、ジェダイたちの試練が始まる。「過去」はルサンチマン(うらみ)となって、「現在」に対していっせいに攻撃を加え、襲いかかるのだ。

 思えば惑星タトウィーンで、育ての親を殺されたルークの立ち直りは早かった。オビ・ワンの死についても、いつまでもくよくよすることはなく、激情にかられて復讐に走ることはなかった。『ジェダイの復讐』では、ダース・ベイダーの誘惑に屈して、激しい感情を見せつつライト・セーバーを抜いた場面もあったが、それは「今まさにこの瞬間」に苦しんでいる仲間の映像を見せられてのことである。過去をほじくりかえされてのことではない。もしかしたら「過去」の脅威を熟知しているはずのベイダーは、我が子の暗黒面への転向を本質的には望んでいなかったという解釈も可能かもしれない。
 と、思わずルークの話に筆をすべらせてしまったのは、実は『エピソード2』という作品そのものが、否応なしに製作済みの「エピソード1、4〜6」の内容を思い浮かべずにはいられないように作られているからである。
 『エピソード2』に描かれた内容のひとつひとつが、過去(未来?) のエピソードと複雑にからみあい、関連性を持っている。製作済みのエピソードと少しでも矛盾が起きないよう、チェックにチェックを重ねて準備されたに違いないシナリオは、したがって上に記したようなことを含め、過去作品への記憶にあふれたものになっている。
 残念ながら『エピソード1』は、お世辞にも批評のいい作品とは言えなかったが、それはすでに旧シリーズを知る観客の、ルークやソロ船長、レイア姫たちの冒険の記憶がいっせいに襲いかかった結果だったように思う。『エピソード4〜6』の見えない脅威が、『エピソード1』を相対的に低くしてしまった以上、『エピソード2』は、作品として並外れた強度を持たねば、それこそ暗黒面に引きずられる可能性があった。その結果、『エピソード2』は見事に勝利を収めたと断固主張したい。見えない脅威たる、アナキンの過去やら記憶やらが、彼のまわりに、まるでファントム(幽霊)のようにまとわりつき、作品全体に強い不安感を漂わせている。そうした負のイメージを振り払うかのように、アナキンとアミダラのロマンスが描かれたり、強烈なアクションが画面を躍動させたりもするが、その一つ一つに避けられぬ運命が影を落としている。
 そうした不安がピークに達するのは、誘拐された母、シミを救出に向かうアナキンが、(ここで流れる、『エピソード1』ではクワイ・ガン・ジンVSダース・モールの決闘のシーンで使われた、暗雲たちこめ、雷鳴がとどろくような、ジョン・ウィリアムスの音楽がとにかく見事だ!)ついに怒りのライト・セーバーを抜く瞬間だ。響きわたる「ノー、アナキン! ノーーッッ!」というクワイ・ガン・ジンの叫び(リアム・ニーソン声のみの特別出演)とともに、空気の変化を敏感に察知したヨーダのアップに切り替わる。
 この、激しい運動を伴うアナキンの感情の放出と、誰にも聞かれぬ声としてのクワイの叫び、諦念を伴うヨーダの無言の顔…、と続くイメージの連鎖は、演出家としてのジョージ・ルーカスが、その持てる才能を完全燃焼させた瞬間である。息を飲むほど見事なシーンであり、何度でも味わいたい表現だ。ルーカスの本質が、やはり秀でたビジネスマンである以上に、優れたアーチストであることを証明している。

 あらかじめハッピー・エンドを約束された、ルーク・スカイウォーカーの物語は、サーガとして大きな物語を紡ぐことができた。しかし、逆に悲劇的結末を避けられない、今回のアナキンとアミダラ、若きオビ・ワンの物語は、スペースオペラとして、運命のすべてを忘れさせてくれるような、ひとつひとつの場面における一瞬の燃焼度にかけるしかない。さもなければ、物語がひどく重く憂鬱になってしまうからだ。『エピソード1』で言うと、それがポッド・レースであり、オビ・ワンとダース・モールのバトルだったわけだ。
 しかし、それにしても『エピソード2』のラスト40分の勢いは、これは只事ではなかった! リドリー・スコットの『グラディエーター』(2000)にやや影響受けたか? と思わずにいられない闘技場という設定は少し減点だけど、息つく間もない大量投下的アクションの連続、この過剰さ、粘りとしつっこさ、そして長さ。全打席三球三振というか、ホームランというかの、完全出力状態である。まさにこれこそが最良のルーカスのタッチであり、『スター・ウォーズ』が『スター・ウォーズ』たる喜びである。記憶と過去をめぐる異常な感情の波と、力とアクションが巻き起こす激しいうねりが相互作用を起こして、『エピソード2』はとびきり見事なイベント・ピクチャーとなった。
 デス・スターの設計図をめぐる攻防となるであろう、来るべき『エピソード3』の展開をほのめかせながら、どのような「結末」を見せてくれるのか。『エピソード2』で示されたたくさんの「過去」を宙吊りにしながら、2005年夏をひたすら待つのみ!

(追記)
 筆者が見たのは先々行オールナイトの6月29日、新宿プラザにて。21時30分からその第一回のショーがスタートする超満員の劇場で、上映前に、ダース・ベイダーとダース・モールのコスプレをした若者たちが、舞台によじのぼってバトルごっこを始めてしまった。隣に座っていた30過ぎくらいの男性が、いまいましそうに舌打ちして「帝国軍どうしで闘ってどーするよ」ともっともなことを愚痴ったのは、馬鹿馬鹿しくも面白かった。一種のお祭りなんだし、どーでもいいじゃん。
 けれどもっとおかしかったのは、その夜、次の休憩時間からは、「…上映中の携帯電話のご使用はご遠慮ください。なお、劇場内でのライト・セーバーのご使用は、固くお断り申し上げます」という場内アナウンスが流れたこと。観客も爆笑と大きな拍手。なかなかのセンスかも。新宿プラザの劇場主、なかなかやるな!
 (2002:08.21)

eriko's Notes : 『エピソード2』の一番の楽しみは、過去と未来をつなぐパズルのピースを並べられることです。『エピソード1』で散らかったままのピースを仕方なく見送ってきてたのですから、今回の楽しさといったらありません。(でもこれはシリーズを通して見ているものだけが味わえる楽しさ)でも、まだまだ行方不明のピースはあって、そのピースはこんなんだろうか、ああだろうか……と『エピソード3』を楽しみに待つこととしましょう。
 それにしても、アナキン・スカイウォーカーにヘイデン.クリステンセンの配役は大正解でした。ヘイデンがほとんど無名であったということで、アナキンの無垢で世間知らずなキャラクターを一層際立たせることができたように思います。もちろん彼の演技力も申し分ありませんでした。『エピソード1』公開時、レオナルド・ディカプリオが青年アナキンを演じるという噂が流れていたのですが、実現しなくて本当によかったと思っているのは私だけではないと思います。(ディカプリオだと、いきなりダークサイドに足を踏み入れたアナキンだ。もう『ギルバート・グレイプ』の無垢さはないもの)

 別の作品ですがキャスティングの変更で大納得だったのは、『ロード・オブ・ザ・リング』のアラゴルンです。当初アラゴルンにはスチュアート・タウンゼント(『クイーン・オブ・ザ・ヴァンパイア』のレスタト)がキャスティングされていましたが、どういう経緯か撮影に入った何週間目かにヴィゴ・モーテンセンにキャスト変更になりました。まあ、個人的な好みもあるでしょうが、私はとても喜んでいます。孤高の王族の末裔、武勇に優れ、寡黙で思慮深く、気品の中に激しさを垣間見せる、という複雑な人物を見事に演じていましたもの。こちらの作品も続編が待遠しいです。


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