改めて言うまでもなく、『アイ・アム・サム』は、知能に障害のある人物を主人公とするヒューマンドラマとして、『レインマン』(1988)と『フォレスト・ガンプ』(1994)に連なる作品である。これらの映画はいずれも、知能が遅れているがゆえの、主人公たちのピュアな視点で、通常は当たり前と思われている社会の矛盾を炙り出す寓話である。そこで、ここでは仮にこれらを「王様は裸だ映画」と勝手に名づけようと思う。
そこを踏まえたうえで、さらにこのジャンルに共通するセオリーを挙げてみると、(1)助演者として主人公の世話役にあたる健常者がいること。(2)主演俳優の誇張ぎみの演技を受け止めるために、共演者は主演よりよほどハイレベルな演技力が必要なこと。(3)けれどその努力はあまり顧みられることがないこと。(4)共演者は健常者ではあるが心に傷を持ち、主人公の素朴な魂によって、最後に必ず癒されること、の4つである。
こうして、主人公は社会を見つめ直すリトマス紙として機能し、その相手役は社会全体が抱える矛盾の象徴を体現する。(『レインマン』ならトム・クルーズ、『フォレスト・ガンプ』ならゲイリー・シニーズ、『アイ・アム・サム』ならミシェル・ファイファーの役どころ)
ちなみに、『ビューティフル・マインド』(2001)も、一見これらと同じジャンルに分けられそうな作品だが、上の(3)と(4)の条件を満たしていないために、まったく別系統の作品と見なすべきである。
たしかに主演のラッセル・クロウには、助演としてジェニファー・コネリーがいる。ただし、彼女はどこまでも世話役としてとても健康で、癒しなど必要としないキャラだし、それにアカデミー賞までとってしまった。もっとも、内面的な複雑さのある役ではないにもかかわらず、あれだけの存在感を示したという意味で、彼女の演技は確かにクルーズやシニーズ以上だったかもしれない。
ともあれ『ビューティフル・マインド』の主人公の病は、あくまでも成功にいたるまでの背景であり、ドラマを盛りたてる装置である。そのためラッセル・クロウの視線が、とりたてて何かを告発するわけではない。従って映画ジャンル論的にいえば、まったく別種の作品と言えるだろう。
前置きが長くなったが、『アイ・アム・サム』は上にあげた重量級の作品にくらべて、はるかに小さくキュートな作品となっている。押し付けがましさがなく、ビートルズのカバー曲の効果的な使用も手伝って、感じのいいメロドラマとしての外形をたたえている。
けれども、そうした外観を超えて、この作品が提示するテーマは決して小さくない。それは「私たちの住む社会は何かが間違っている」ということである。『フォレスト・ガンプ』や『レインマン』を含めた「王様は裸だ映画」のセオリーとして、主人公の素朴な目が、図らずも現代アメリカ社会が抱える矛盾を突く構造になっており、サム(ショーン・ペン)を通して語られる事件の一つ一つが、アメリカ的正義への疑問提起になっている。
ビートルズに目がなく、「7歳の知能しかもたない」サムは、ホームレスの女性との間に娘ができるが、出産後すぐに母親が失踪。娘にルーシー(“Lucy in the Sky with Diamond”)と名づけ、たった一人で彼女を育てるハメになる。(ちなみに、サムはこの子の本当の父親ではなく、ホームレスの母親にまんまと子供を押しつけられただけなのではないか、という見解が『アイ・アム・サム』公式HP(http://www.iamsam.jp/)の掲示板にアップされていたが、まったく慧眼だと思う)
ところがサムがダイナーで食事をしている時、娼婦にかどわかされている所を誤解され、警察に連行されたのを機に(このエピソードはサム≠ルーシーの父親説をある意味補強しているように思う)ルーシーの通う学校のソーシャル・ワーカーが提訴。知能障害のあるサムには養育能力なしとして2人を引き離そうという動きが起こる。そこにサムの弁護士として、ミシェル・ファイファー演じるリタ(“Lovely Lita, meter maid!”とルーシー)がつくが、彼女自身の家庭も崩壊寸前…という筋書きである。
「王様は裸だ映画」では、筋書きこそ様々だが、いずれも障害者である主人公の理解に苦しむこと(けれども健常者としては疑問にも感じぬこと)が、直ちに素朴な疑問=社会の矛盾として示される。観客(健常者)の目はいつしか主人公の目にすりかわり、そこからは逆に、常識だったはずの社会ルールがみな異常に見えてくる。こうして物語は教訓性を帯び、それがほどよいユーモアを生むこともあれば、義憤に駆られることにもなる。『アイ・アム・サム』のシナリオはまさにその定型通りに作られている。
サムとルーシーの生活にまったく利害のない第三者が、突然彼らの人生に土足で入り込み、2人を引き離そうとする。しかも「子供の将来のため」という反論不能の「正義」を振りかざしながら。こうした「正義」が、どれだけ社会の底辺に生きる者の小さな幸せを奪うかを、この映画はやんわりと指摘する。こうした暴力すれすれの正義というのは、身の回りにたくさんあるのではないか。
サムの家の隣人であり、部屋を一歩も出たことのない引きこもりのピアニスト(ダイアン・ウィーストの素晴らしく理知的な演技!) が、勇気をふるって外出を果たし、2人のために裁判に出頭するものの、検事によって情け容赦なく過去を暴かれ、そのため再び引きこもりに戻ってしまう。彼はいったい何の権利があって、「彼女を泣かすの」か。
正義の名のもとに、無関係な人を泣かすのは決して検事側だけではない。サムの側に立つ弁護士リタも、勝訴のために検事側証言者のプライベートを残酷に暴き立て、証言不能にしてしまう。仕事とはいえ、なぜリタは「彼女を泣かすの」か。
ここで「ざまあみろ」と言わんばかりの、冷ややかなミシェル・ファイファーの顔と、なぜこんなことになるのかと言いたげに首をひねるショーン・ペンをつなぐ、抜け目のない編集ぶりは見事である。こうしたことの積み重ねで、いったいこの裁判は何のために誰のためにやっているのかが、全くわからなくなる。
出番は少ないものの、ルーシーの里親として登場するローラ・ダーンの打算のない、健全なカリフォルニアの知的階級ぶりも巧みに描かれている。おそらくルーシーは彼らにひきとられても、間違いなく幸せな生活を築くにちがいない。けれどこの人たちの「愛」のよりどころは何なのか。ルーシーの未来だけに目を向けると、サムはルーシーを手放した方がいいに決まっている。でも全体を見ると絶対に何かがちがう。どこか「正義」や「愛」のあり方が間違っている。もしかしたら私たち自身が信じる「正義」や「愛」のあり方も、極めて自己中心的で矮小なものにすぎないのではないか。そうしたことがサムの目を通して私たちにフィードバックされるのである。
ただし、一緒にいるサムとルーシー(演じる7歳のダコタ・ファニングが驚異的!)の笑顔があまりに輝かしいために、つい彼らに感情移入させられるのだが、それだけではこの映画をとらえ損ねてしまう。この映画は、どんなにその論告が腹立たしく、承服できないものであっても、検事側を必ずしも「悪役」としては描いていない。いや、おそらく観客の多くは彼らを悪役と見なしてしまうかもしれないが、先に述べたミシェル・ファイファーの弁論ぶりとの相対でみると、彼らは彼らなりの正義があるわけで、それは一概に間違いではなく、憎しみとは無縁である。そのために、検事の人間的バックグラウンドは全く描写されず、きわめて無機的な人物として慎重に演出されているわけだ。事実この検事のセリフは裁判での論告以外には一言たりともない。ほぼ同じ意味合いで、担当ソーシャル・ワーカーも、規則を破って逃亡したサムとルーシーを見逃してくれるだけの人情は持ち合わせている一方で、最終論告の場では彼らへの情によって立場を変えるわけではない。
この映画は、結局のところファンタジーであるわけだし、『フォレスト・ガンプ』や『レインマン』ほど映画史に残ることはないだろう。けれども、現代(アメリカ)社会に対する批評として、『アイ・アム・サム』は絶対に擁護されるべきだ。キュートなダコタ・ファニングの笑顔や、いつもに増して美人なミシェル・ファイファー、そしてショーン・ペンの巧みな演技によって、ついつい「愛と感動の物語」にされてしまうのだけれど、これはきわめて社会的な作品なのである。時代の矛盾に関する問題意識を伝える手段として、「物語」が持つ力を改めて思い知らされる作品だと思う。
今の合衆国は画一的な「正義」を全世界に押しつけようとやっきだが、「正義」が基本的に反論できぬものである以上、いかに取扱いが危険であるか。求められるべきは、その行使においてどれだけの犠牲があり得るかを自覚する知性である。そうした知性の希求を、知能の劣る人物によって語られる所に一種のアイロニーがあるが、その意味でこの物語は少なくとも現在において、『ビューティフル・マインド』よりもはるかに貴重なはずである。きっと『アイ・アム・サム』のメッセージが、生活文化の中に少しずつ浸透することでしか、世の中は変わらないのだろうと思う。たとえばビートルズの歌がそうであったように。
ちなみに、ブルーを基本とする硬質の画面が「理性」の側を象徴し、どこかぼんやりとしたサムの意識と重なるかのように、かすかに揺らぐ手持カメラの映像が「疑問提起」の側を示すかのような、エリオット・デイビスのキャメラがとにかくすばらしい。スティーブン・ソダーバーグの『アウト・オブ・サイト』(1998)で、見事な画面を作った撮影監督である。
監督は(共同脚本も)、ウーピー・ゴールドバーグ主演の地味ながら心に残る『コリーナ・コリーナ』(1994)のジェシー・ネルソン。およそダメな映画しか作れないクリス・コロンバス監督の唯一まともな映画『グッドナイト・ムーン』(1998)や、やはりミシェル・ファイファー主演の印象的な『ストーリー・オブ・ラブ』(ロブ・ライナー監督 1999)のシナリオも手がけている。家族間の感情を描くのに長けた才人である。
(2002:06.26)