自分自身が若かったこともあって、次に述べる3人の監督たちが80年代はじめに続々と登場した時、今後のハリウッドの最良の部分を担うのが間違いなく彼らであり、この人たちに生涯こだわり続けるだろうと深く確信したことを思い出す。その3人の名前が、『ターミネーター』(1984)のジェームズ・キャメロンであり、『ロマンシング・ストーン』(1984)のロバート・ゼメキスであり、そして『スプラッシュ』(1984)のロン・ハワードだった。(製作年度を再確認して心底驚いた。なんと3本とも1984年度作品じゃないか!)
それぞれの次回作として、めいめいが『エイリアン2』(キャメロン 1986)、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(ゼメキス 1985)、『コクーン』(ハワード 1985)を発表した時、その思いはもはや歓喜に変わった。もし彼らの作品がなかったら、自分のこれまでの人生のどこかで映画をたしなみ程度の趣味にしてしまっていた可能性すら考えられなくもない。
作風も出自もまったく違うこの3人の作品には、ようやく70年代の終わりから映画を見始めた私たち世代がおそらく完璧に体験しそびれたもの、たぶん旧世代の観客が日常的に接していたに違いない、本物のサスペンス、本物の笑い、本物の涙、本物のロマンス、本物のアドベンチャー、本物のスターズムに満ちていた。その頃に感じていた、きっと昔の映画はもっと素晴らしかったに違いないという、旧世代に対する根暗い嫉妬心を少なからず解消してくれた。古きよきハリウッドはこうだったろう、というイメージがそのままスクリーンに映っていた。彼らの映画はどこか古いのに、しかし決定的に新しく、若々しい気分が漲っていた。そこにはまだ見ぬアメリカがあり、「そっち」はよりよい場所に違いないという真のあこがれがあった。彼らの映画を見ることは、彼らへの愛を深めること以上に、映画そのものに対する愛を深めることだった。つまりはノックアウトされたのだ。
それから10年以上の月日がたち、個人的な話をするならば、学校を出て就職し、結婚もして子供もできた。アメリカにも何度も行った。けれどいまだにこの3人の作品は特別扱いだし、一足早く『フォレスト・ガンプ』(1994)でオスカーを制覇したゼメキスに続き、キャメロンも『タイタニック』(1997)で「世界の王」となった。そして2002年、残るロン・ハワードも、『ビューティフル・マインド』でついにオスカーを獲得した。これで、私の中の3巨匠が全員アカデミー賞を制したわけである。
若く野心的だったゼメキス、キャメロン、ハワードも、もうハリウッドの御大だ。けれどロン・ハワードに限っては、この『ビューティフル・マインド』をもってしても、どこか達成感を感じられないのはなぜなんだろうか。それはたぶん、『タイタニック』も『フォレスト・ガンプ』も、それぞれ文句なくキャメロンとゼメキスの代表作と呼ぶにふさわしい出来栄えと風格があったわけだが、『ビューティフル・マインド』をロン・ハワードの代表作かと言われると、「それは断じて違う!」と言わざるを得ないからだ。
ロン・ハワードは恐ろしく作品にムラのない監督だ。3人のうち誰よりも多彩なジャンルを手がけるにもかかわらず、誰よりも安定した作品を打ち出してくる。その意味で『ビューティフル・マインド』は、これまでのハワード作品では平均点どおりの作品である。アカデミー賞というイメージならば、既に『アポロ13』(1995)、『バックドラフト』(1991)、『バックマン家の人々』(1989)など、珠玉の作品がいくつもある。逆に言うと、オスカーなどとっくに獲っているべきだったし、さもなくば永久に獲るべきではないのだ。
『ビューティフル・マインド』は確かに素晴らしい。たとえば、アメリカの大学では学者の偉大な業績に対して敬意を表明するために、自分の万年筆を捧げる習慣があるらしいのだが、長年の苦労の果てに、ジョン・ナッシュ(ラッセル・クロウ)が座るカフェのテーブルに、権威ある学者たちが次々とやって来ては1本、また1本と万年筆を置いていく。その感情の高まりと、映像の歓喜が一体となって一挙に感動がほとばしるそのダイナミズム! 移動し、接近し、そして上空から舞い降りるキャメラ。ここぞという場面でのハワードほど、美しく的確なショットを重ねる演出家は他にいない。ロン・ハワード節が炸裂する究極の瞬間である。ここには彼が一貫して描き続ける、間違いつつも最後の判断は常に良心に至る良きアメリカがある。『ビューティフル・マインド』は隅々までハワードの美点で埋め尽くされている。その素晴らしさとは、キャメロンのペシミズムには見られぬ未来への確信であり、ゼメキスのややいいかげんな楽天性には見られぬ篤実さなのだ。
こうしたいつもと変わらぬハワードの手腕に酔いながらも、しかしこの映画に夢中になりきれなかったことを白状しなくてはならない。理由はズバリ9.11以後の合衆国と、その共和党大統領のやり口に対する嫌悪と絶望感だ。名前を書き記す気にもなれない、あの現大統領が見せたアメリカの最悪の部分と、その国民が示した最悪の反応のためである。
こうした事態に至って、最も力を失い、色褪せて見えるのが実はロン・ハワード的なアメリカである。アカ狩りやベトナムなどの最悪のアメリカを知りつつも、しかしロン・ハワードが描くような最良のアメリカが本質にあるという共同幻想が、ハリウッド映画の魅惑を支えてきた源だ。けれども逆に、ロン・ハワードのアメリカの方が表層であり、アフガンに爆撃を展開する最悪のアメリカこそが、実は本質であることが仄見えた今、これまでと変わらぬロン・ハワードの良心作に、無条件に夢中になることはできない。1年前ならこの作品を存分に楽しむこともできたろう。けれどそれをさせない世界にしてしまった合衆国の現政権に深い憎しみを覚えるし、何より映画に対して悲しみを感じる。
ロン・ハワードは、自分がこれまで構築してきたアメリカン・ビューティフル・マインドに対する違和は感じているだろうか。ロン・ハワード的なるものの信憑性が危機に瀕している今、それを呼び戻すには時代にノーを突きつける、現代にとっての『イージー・ライダー』(1969)や『スケアクロウ』(1973)が必要なのだと思う。そうした60〜70年代の苦みある作品群を通過した後に80年代が花開いたように、今は時代に対するイラだち(しかも商業的な成功も収める)が必要なのだが、たぶんそれを撮れるのは彼しかいないはずなのだ。なぜならいま終焉の瀬戸際にあるのは、ハワードが担ってきたハリウッド・マインドなのだから。
(2002:6.9)