独裁体制下にあるソマリアの内政に介入するアメリカ合衆国軍が、その内紛に終止符を打つべく権力を握るアイディード将軍の一派の拉致を計画。大規模な兵を投入するものの、ヘリ(ブラックホーク)の墜落をきっかけに作戦は硬直化し、米兵たちの地獄図がはじまる。ごく端的に言って、『ブラックホーク・ダウン』はこうしたストーリーにまとめられる。
が、しかし約2時間半の上映時間は、まさに生々しい戦闘描写に終始する。必要最小限の人物紹介と作戦概要だけを描くと、それ以外の副次的なエピソードは一切なく、ただひたすらに戦闘シーンのみが続くという、超硬派なスタンスの作品だ。
ミサイルの爆風はすべてをなぎ倒し、耳元で発砲すれば鼓膜は破れ、ヘリが巻き起こす砂塵は視界をゼロにする。これまで、なぜか映画表現においては隠蔽されてきた生々しい戦争のリアリズムが、そのまま即物的に投げ出されている。この映画のあとでは、いかにコミックとはいえ、閉鎖空間であれほどの爆発にも無傷でいるような『コラテラル・ダメージ』(2001)など完全に無効になる。バカバカしいにも程は必要なのだ。
『ディア・ハンター』(1978)以後、オーディ・マーフィ主演作や、『大脱走』(1963)、または『史上最大の作戦』(1962)から『遠すぎた橋』(1977)に至る、娯楽映画としての「戦争映画」というジャンルは消滅した。それはあくまでも「戦場」という状況を触媒とした、自己の内面を探求するジャンルへと変貌するだろう。それは「戦争」から連想する戦いが、連合軍対ナチスのように勧善懲悪として把握するのが比較的容易な第二次世界大戦(だから今だに『パール・ハーバー』(2001)のようなファンタジーが可能になる)から、イデオロギー的に複雑なベトナム戦争に変わったという時代の変化があること。また、それと平行したメディアの発達によって、戦場の過酷さがそれなりに認知された結果、戦争を娯楽ととらえることを自戒する気持ちが生じたからともいえるだろう。加えて『地獄の黙示録』(1979)の登場は、戦争を娯楽の題材とする可能性を完全に圧殺した。
すると当然、「戦争映画」を作ろうとする際、中心となる主題は、主人公たちの「過去」であり「追憶」となる。『ディア・ハンター』をはじめ、『プラトーン』(1986)、『プライベート・ライアン』(1998)、『シン・レッド・ライン』(1998)まで、80年代以後の戦争映画から「ノスタルジー」の要素を拭い去ったら、物語の基盤そのものが消えてしまう。
しかしながら、『ブラックホーク・ダウン』の登場人物にあっては「過去」も「未来」もない。そこにあるのはただ「現在」のみであり、従って彼らに対する共感への回路は遮断されている。キャラクターには郷愁に濡れた過去があり、奪えぬ記憶があることを認知して初めて、感情移入装置は起動をはじめる。たとえば『プライベート・ライアン』が、前半どんなに無機的な戦闘描写となっていても、トム・ハンクスがその生命に対して責任を負う部下たちに、平凡な教師としての出自(過去)をしみじみと語るシーンによって、一挙にキャラたちに情が移っていくのである。
『ブラックホーク・ダウン』において、米兵を演じる俳優たちの顔を見分けるのは困難だ。ジョシュ・ハートネット、ユアン・マクレガーなど、それなりにスター性のある顔ぶれがそろってはいるのだが、よくよく見ていないと、どれが誰だかわからないのである。硝煙や砂埃で顔は真っ黒に汚れ、各人物には一応の性格付けはされているものの、徹底した戦場のカオスにあって、そんなものは全く意味を持たない。当然ながらそこには実存的な苦悩などは描かれず、場を支配するのはあくまでもルールのみ。「撃たれる前には撃つな」、「絶対に戦場に味方を置き去りにするな」であり、その結果がこの泥沼化なのである。
クリント・イーストウッドは『ハートブレイク・リッジ』(1986)において、「軍人の本分は臨機応変である」として、規律一辺倒な軍隊の弱体化に喝を入れたわけだが、思うにあそこでイーストウッドに鍛えられなかった部隊が、この合衆国軍を担っているのだろう。
だからといって、リドリー・スコットの演出はそうした内部的矛盾を糾弾するわけではない。というか、思想的な何かを訴えようとなどしていない。戦争にあっては、傷つくのは肉体であり、血を流すのは自分の皮膚なのだ。弾丸が撃ち込まれ、吹き飛ばされるのは腕や足であり、心なんかではないのである。リドリー・スコットはこの映画において、人間ドラマを描こうなどという色気は微塵も見せず、戦場の現実を提示することにのみ腐心している。俳優陣に演技をつけようなどという意思はかけらもないので、才能と手間と時間のすべてを構図作りと音響設計に投入している。すべてのショットはそれ以外には考えられぬ完璧な絵となっており、戦場というものをバーチャルに体験させることに徹した「映像の魔術師」としてのスコットの本分がフルに生かされている。
この映画に何らかの教訓的・反戦的なメッセージがあるとしたら、小さな子供の死体を抱えて国連軍の車の前を、ゆっくりと無表情に横切っていく老人の姿だ。なまじっかなモノローグより、このショットの方がずっと多くを語っている。(実際ラストのジョシュ・ハートネットによる、申し訳のようなモノローグには何の意味もない)そして逮捕したソマリア将校の語る、「アイディード将軍が銃をおけば皆が銃をおくと思うのか。勝利なくして平和などない」という、決して歩み寄ることのできない合衆国的イデオロギーとの決定的乖離。この一言により、たとえ合衆国軍の作戦が成功したにせよ、それが束の間のものであり、およそ全ての軍事行動が無効化される。そのことが戦闘の徒労感をいや増している。
こうした非常にシニカルでひねったアプローチで、絶望的に無駄な営みとしての戦争を描いたリドリー・スコット、まさに快心の出来栄えで、彼のマスターピースとして長く記憶し続けたい。それにしてもプロデュースはジェリー・ブラッカイマー。同時にまるで対象的な、あの『パール・ハーバー』を作っていることが信じられないのだけど…。
(2002:5.10)