『花降る時』
桜の季節が、今年も過ぎようしている。
この季節になると、私はまた、あの時の自分に戻ってしまう。
強く思い出すのは、ぽっかりした淋しさを抱えて満開の桜を見上げていた自分ではなくて、逢える事を疑わず彼がやってくるまでの時間をどきどきしながら過ごしていた自分だ。何故こんな風に思い出すのだろう。桜の季節の思い出は、他にもいろいろあるのに。その彼とは滅多に逢えなかった。お互いそれぞれの生活があったし、それにとても忙しかった。数ヶ月振りに私が生まれ育った街で逢う事になったのは、彼は仕事で、私は同窓会があって、たまたま同じ頃にその街を訪れる予定だったから。逢ってその夜は一緒に過ごそうということだけ決めて、あとは何の予定もなかった。でも私は密かに、ちょうど見頃を迎える京都の桜を彼と見たいと思っていた。あの人をどこに連れて行こう。円山公園の桜は圧倒的だけど、祇園白川の桜もいい。南禅寺から哲学の道を経て銀閣寺まで行こうか。考えるだけでわくわくした。新幹線が京都に着く時間がわかったら連絡をくれることになっていた。なるべく早い時間に行くようにするよ、と彼。それまでの時間を、私は堺町三条の老舗カフェで過ごした。普段コーヒーはブラックで飲むけれど、ここではミルクと砂糖を入れたコーヒーを飲む。店内はいつも混んでいて、それでも不思議と落ち着ける店。私はそこで彼を待っていたのだ。いろんな事を考えながら。彼からメールが来た。『今、電話できる?』ちょっと迷って、電話をかけた。「ごめん。うちの奥さんが、熱出して倒れたんだ」予定はすべてキャンセル。簡単なものだ。冷めたコーヒーを口に含むと、甘ったるかった。それまでにだって、彼との予定がキャンセルになったことはないわけじゃなかった。だからその時も、「そう。しょうがないね。お大事にして」と簡単に答えた。痛みの実感はなかった。でもそれはあとから徐々に効いてくる痛みで、思いの外深い傷を負ったんだと思う。だから今でも、こんな風に思い出すんだ。その後私は、ひとりで円山公園に出かけ、見事な枝垂れ桜を見た。今まさに満開。咲き誇る桜。圧巻だった。その中で、私は彼を思った。自分で、自分の傷を深くしてしまったんだ。そうだ、もう一つある。その後に、私から彼に言ったのだ。『ねえ。いつか二人で、桜を見に行きたいの』『うん、わかった。約束する』と彼。その約束は、今も果たされていない。そんな約束はするべきじゃなかったんだ。あの日、彼が予定通りにやってきて二人で満開の桜を見上げていたなら、その先の出来事は変わっていたのかなと考える。たぶん、それ程変わりはしなかっただろう。でも、桜の季節が過ぎる頃、これほどまでに彼を思い出すことはなかったはずだ。叶わなかった約束や思いが、自分を強く捕らえている。実際に体験した出来事以上に。音も立てずに 降る降る桜君と見上げる 時を待たずに 言葉もなく ただ静かに春の只中 降る降る桜*************************
「花降る時」
という曲から作った小話です。もちろんフィクションです。どなたか、続き書いて下さると嬉しい。うへへ。
from『NOION』