地下鉄サリン事件があったのは、
阪神淡路大震災と同じ年、平成7(1995)年の3月。
その日、私は大学の卒業式に出席していた。
式自体はつつがなく進行したのだけれど、
その前後で漏れ聞く
「地下鉄でとんでもない事件が起こったらしい」「駅が封鎖されているらしい」等の声は
私を凍りつかせるには十分だった。
そんなオウム真理教(当時)の事件を元ネたにした
野田秀樹の新作なのだが、
結果は非常に残念なものだとしか言いようがない。
人物も浅いし、掘り下げも不十分。
お得意の言葉遊びも視覚化したことで
逆に先が見えてしまって陳腐なものになっていた。
見終わって、ぽっかーーん!ですよ。
無感動だし、だから何?って感じだし。
「君がすがっていたのは神なんかじゃない、袖だったんだよ!」
おいおい、漢字遊び(神と袖の類似)を見せる為だけに上演された舞台のか?!と疑いたくなる展開ですな。
思いついたギャグに固執しすぎてプロットが甘くなり、
全体像が完全にボケんじゃないの?!
それでいいんですか、野田さん!
あの事件を描くのに、なぜこの程度の温い作品になるのだろう。
そりゃあ、
「Give me change(小銭をください)」が
「Give me change(変化をください)」になって、
さらに「Kill me change(私を殺して変化を)」に変化させてゆく、
教祖(古田新太)の空っぽパワフルぶりは迫力があったさ。
書道教室(宗教)に集まった人が抜け出せなくなるシステムもよく分かったよ。
このネタにおいては、宗教の教義や洗脳システムの解明も必要だろうさ。
けどね、肝心な点はソコじゃないでしょ。
あの事件から15年たった今、オウム問題を扱うのならば、
「何故人は、神と称する袖に縋ろうとするのか」を追求せずして
何を追及するというのだ。
事件発生当時ならば「教団はどのようにして信者を肉体的精神的に支配し得たのか」
というのは一つのテーマだっただろう。
でも、今は違うでしょ。今はソコじゃない。
何故多くの人がその書道教室(宗教)に集まってくるのか、そこに
現代日本人の心の闇とかってヤツがあるわけで。
宗教側の方法論よりも、
その宗教に集まる(すがる)側の人間及び社会にこそ、
深い問題が内在しているんじゃないのかい。
けど、今回の舞台はそのへん素通り。
書道教室時代からの古参の苦悩は多少はわかった。
が、神がかってる教祖のいる書道教室に通い始める人々の心理って?
それは何処へ行ったの?
それを描かずして何でこの問題を「今」取り上げて舞台化するんだよ!ってことです。
宮沢りえは、袖に縋って落ちていった弟を探しているマドロミという役を
上手くこなしていたとは思う。
でも、これって「宮沢りえ主役が大前提なので」ってのがあって、
それでこういう扱いなんだよね?
もっと描くべきはギリシア神話のアポローン(チョウソンハ)&ダプネー(美波)なんじゃない?
この二人の扱いが軽い(本筋から浮いて見える)から、
物語が平坦にしか見えないんだよね。
実在の事件をネタにした野田作品なら 『The Diver』 (2008年)の方がひねりが効いていたし、 同じ宗教団体の題材ならTHEガジラ 『ルート64』 (2002年)の方が心理を掘り下げていた。
野田、ワンパターンにはまって行き詰っているのか、
彼の才能も枯渇したのか、
それとも各種制約が彼を縛っているのか。
あるいは、野田秀樹をもってしても描ききれないのが、
現実のオウム真理教の事件ということなのか。
不思議に清潔な存在感で舞台を牽引していた古田新太に星を2つ進呈する。