開演前に「お手元のチラシに挟み込んだ『観劇の手引き』をお読みになり、
開演まで今しばらくお待ちください」とのアナウンス。
手引きとは何ぞや?と気にはなったのだが、
なんとなくめんどくさくて読まずに芝居を観る。単なるずぼらです。
手引きを読まなくても設定の大枠はわかったが、
何かもっと大きなどんでん返しがあるのかと期待してラストで肩透かしをくらった気分。
帰宅後「手引き」を読んで設定を理解し、その設定に則って場面を反芻した今でも、
何処か騙されているような、何かが食い違っているようなモゾモゾした気持ちが残る。
このモヤモヤ感が癖になって、庭劇団ペニノから抜け出せなくなるんだろうな。
お父さん(久保井研)のテキトー具合、凄いな。
昭和の頃には、こういうお父さんがいて、こういう過程の風景が全国的にあった。
近所の酒屋さんがお酒を届けに来て、お隣さん?からスイカを1個まるまるもらって、
洗濯物干しがステンレスではなくて竹竿で、家の間取りの基本が和室で縁側があって、
テレビの野球放送では桑田がヒーローなのね。
タカヒロ(ラヴェルヌ拓海)を迎えて、一番戸惑っているのが「お父さん役」の人なのだろう。
あるいはお父さんにとって、タカヒロは自分の少年時代を思い出させる何かなのだろうか。
タカヒロ(ラヴェルヌ拓海)の存在によって張り切っているのは、お母さん(五十嵐操)。
ことにお母さんが犬になって、実際に庭で飼われ、
エサとして与えられたスイカを嬉々として食べる様子は、おかしみと同時に悲しみがある。
その犬の頭をなでるタカヒロがまた、良いんだな〜。
酔っ払ったお父さんがタカヒロのキュウリとナスビの植え込みを荒らし、
はては犬の陣地にまで入ってきたときに「ウー!ギャン!ギャン!ギャン!!」と
激しく吠え立てる犬の必死さは、身も心も犬でなければできないだろうね。
だからこそ、タカヒロとお父さんが花火をする横でその明かりを見つめる
(まるでお母さんのような)犬の目の温かさに、うっかりじ〜んとしてしまうのだ。
タカヒロに「お兄ちゃん」と慕われるオニイサン(飯田一期)は、
このメンバーの中にあって最も普通に、一番まともに、タカヒロのことを考えている。
そうだよね、だってタカヒロの(=ラヴェルヌ拓海君の日本語教育の)ための家族
ごっこなのだから、
一人くらいは親しみやすい普通のオニイサンがいないとね、困っちゃうよね。
いくら「1限目:社会のじかん 大人とふれあおう」って言われても、
ふれあいにくいエキセントリックな大人ばかりではタカヒロは困っちゃって、
ますます水鉄砲だけがお友達になるもんな。
愛人(熊谷美香)の、いかにもパターンな愛人が、いとおかし。
キャミソール姿でくねくねする仕草、バーのママのように手際よく水割りを作る様子、
意図的にしなだれかかるやりくち、いちいちはしゃぐお約束。
ブラとパンティが時代を感じさせることや、それが水鉄砲をくらってじんわり濡れても、
エロではなくて人形っぽいのも、「4限目:道徳のじかん 自由な心をもとう」に
適していてgood。
屋根裏に居候しているババア(瀬口タエコ)は、
庭劇団ペニノの前回公演『苛々する大人の絵本』の
ボート屋にあこがれる羊、再び、ですね。
あれでほのかに異臭を放つ不潔さがあれば、文句無いんだがな。
しかしまぁ何と言っても素晴らしいのは、赤ウィンナーの精(マメ山田)。
赤いレオタードに赤い帽子、赤い靴下に赤い靴、赤いマントに赤いリュックサック、
鼻は天狗のような高さと長さで先端が赤く、三つ編みが輪になったヘアスタイル。
小人症のマメ山田が、そのグロテスクな小ささ&それ相応の年齢を思わせる肌を見せつけて
踊る登場シーンは、子供でなければまっすぐな興味全開で見ることができない
(その意味で、赤ウィンナーの精は大人には見えない)のだろう。
タカヒロと赤ウィンナーの精が一緒になってババアをやっつける場面、良かったな〜。
だって、タカヒロが初めて自分から積極的に大人に声をかけた場面だからね。
全てが終わり、2階まで届く満開の花のハシゴでタカヒロが花に水鉄砲を向けている様子を、 大人たちは温かく見ている。その時のマメ山田の、屈託の無い微笑が良い。
きっと、私はこの物語に、何か騙されているのだと思う。
あるいは全く騙されていなくて観たとおりマンマなのに、
騙されたように思っているだけかもしれない。
そして、そのねじれ具合さえもが、演出(タニノクロウ)の企みなのでは?と思えてならない。
やばい。私は普段全くリピート観劇しないのだけれど、この芝居はもう一度観て、
味わい直し&見きわめたいような気がしてきた。