まあ、よくあるテーマと言ってしまえばそれまでだし、
「現実はもっとエグイんじゃん?」と言う人もいるだろう。
けれど、「人と人が出会うこと」を描き、
ずっと一緒には生きていけなかった時にどうするか、
その出口の見えない、けれども歩んでいる限り出口には近づく道を
描いた作品として、とても面白かった。
こういう長塚圭史(脚本・演出)は好きかも。
実は芝居が始まった最初の10分位は、「え?松たか子って、
いつの間にこんなに棒読みの大根役者になったんだ・・・?
『コーカサスの白墨の輪』の、
あの過去を否定する芝居だ!」とかなり焦った。
だが、人気ビストロのシェフ尾崎信助(田中哲司)と、その新妻である馨(松たか子)の
その見事なまでにかみあわない会話、何かが素通りしていく感じ、
そしてシェフ尾崎のとても普通に普通な人である様子が分かってきて、
そこでようやく理解できた。つまり、馨の何処かが壊れていることが。
時折神経質にコンパクト(手鏡?)を覗き込む馨、
彼女はそこに何を見て安心していたのだろう?
コンパクトの暗示が効かなくなった時、滲み出す過去に馨の神経が揺らいで行く。
子供向け冒険小説家・神城礼二(吉田鋼太郎)と、その娘・美鳥(鈴木杏)の
近すぎる会話。ことに美鳥の、明るく元気だけれども何処かに何かが引っかかるような
含みのある芝居に、私はこれまた吃驚する。
「え?鈴木杏って、藤原竜也(主演)、
蜷川幸雄(演出)『ハムレット』で
棒立ちに等しいオフィーリアだった女優でしょ?
いつの間にこんなに上手くなったんだ・・・?」いやはや、下手だと思った役者でも
(とくにその役者が若ければ)5年後には再確認すべきですね。
素人シェフ三田村優治(中村まこと)のへなちょこっぷり、
従業員・稔子(梅沢昌代)の憑きっぷりも加わって、
場所と時間もぐらぐら揺らぐ。
そしてひび割れた床から水が染み出し(ほぼ役者のくるぶし位まで水が貯まり、
舞台はさながら巨大な水溜り/美術(二村周作))、
その水面に照明(小川幾雄)が反射する。
壁には大きな赤い蘭?が隠微に引きつって微笑み、
あちらからは赤い花(彼岸花か?)が流れてくる。
やばい、やばい。
観客の誰もが「やばい・・・きっと壊れる、ダメになる!」と思いながら、
けれども目を背けることを忘れて舞台を食い入るように見る。
これ、ね。なんで最終的には拒否される物語が多いのだろう。
何故「受け入れて、二人は更に幸せに暮らしました」と、ならないのだろう。
どうして礼二の(&馨の父の)メッキは結局剥げるのだろう。
生物学的に、倫理的に、道徳的に、社会規範としてダメだから?
あ、そうか。馨が言うように「子供が玩具を欲しがるように、暴力で誰かを征服する
ため」の行為だから、子供は子供を育てられないってことか。
でも、世の中の母親・父親は、別に子供が生まれて突然親になるわけではなくて、
子供を育ててゆく中で父親・母親らしくなると聞くし。
しかも礼二は父親経験者なんだから、再び父親になることに何の抵抗が?
・・・んー、でも、礼二、子供にもどっちゃってるから親業は無理なのか?
ちっ、全然わかんねー。
それと、どうして逆バージョンってあまり見かけないのだろう。
体力的、体形的、骨格的に無理なのか?
でも、相手が子供の時なら女だってできるだろうけれど。
あ、そうか、女はそういうふうにはモチベーション上がらないんだな、そうか、そうか。
メスは畑に植えるタネを厳選するけれど、
オスはタネを撒く機会があれば畑を選ばないらしいし。
どうやって封印しても、過去はにじみ出てくるだろう。
それでも、馨にとって尾崎信助の妻であることが「我が家」にいることで、
尾崎家が本当に「我が家」になれば良いと思う。
「厨房を見せて、頑張って作ってます!と主張するレストランなんか俺は嫌いだ!
その料理を誰がどうやって作ったか、そんな過去は問題じゃない。
その料理が美味しいか、美味しくないかだ。
そして僕らはまだ席に座ったばっかりで、
お互いにその味をまだ良く知らないんだ(中略)
お互い、食べる側であり、また料理でもある」
それにしても、よかったね、岡田利規。
デーア・ローアー(作)・岡田利規(演出)『タトゥー』@新国立劇場小劇場の上演が
10ヶ月先の来年5月で。
これが年内の上演だったら、
同世代(長塚1975年生まれ、岡田1973年生まれ)の演出家による
同一テーマ作品の上演として嫌でも比較されるでしょ。