陳凱歌(チェン・カイコー)監督、張國榮(レスリー・チャン)主演の映画『さらば、わが愛 覇王別姫』は見ている。京劇の生の舞台も何度か見ており、『覇王別姫』も大連京劇院の来日公演を見ている。
そんな私にとって、この蜷川幸雄監督、東山紀之主演の舞台を見るのは「全く何の期待もせず、ただ怖いモノ見たさで見届ける」という以外、どのようなスタンスも持ち得ない状態。当初は観に行かないつもりだったのだが、やはり京劇好きとして確認しておかねばならない舞台だろうと思い直し、勇気を奮って劇場へ。
東山紀之が京劇女形に扮したポスターは3ヶ月くらい前から見ていたが、実に「ありえねー」出来。まず、白塗りにした手がデカイ。肩幅が広い。胸板が厚い。とてもじゃないが女には見えない。あれは女形ではなくて単なる「女装」。
ポスターってさぁ、綺麗に見えるように撮るんじゃないのか?舞台のように360度見られているわけじゃなくて、一番美しく見えるある一点の角度から撮っているんだよね? それで、アレかよ。と、まぁ、ポスターの段階から、私は東山紀之の京劇女形には全く期待していなかった…どころか、絶望していた。
木村佳乃については、2005年に蜷川演出『幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門』で観てガッカリしており、これまた全く期待していなかった。
遠藤憲一は映像中心の役者ということしか知らず、何の先入観も無かった。でもどこかで名前に見覚えがあるような気がして調べたら、どうやら2004年『BENT』で観ているようだ。うーん、あの時も驚異的に伝わってこなかったんだよな。
ま、これだけ期待できる要素が無い舞台を見に行くというのも、我ながらよっぽどだと思う。だが、これだけ何も期待していなければ、かえって「あれ?上手くなってるじゃん、木村佳乃!」とか「女形に見えるときもあるじゃん、東山!」とか、そ〜ゆ〜大逆転もなきしにもあらずなわけで。
と、まぁ、あれこれ述べてみたが、ようするに、想像通りのトホホな舞台。
特に、段小樓(遠藤憲一)!!!てめーそれでも演技してんのか、うりゃーっつ!
アンタの演技に対して蜷川幸雄は灰皿を投げつけなかったかもしれない。でも、お金を払って見に行った私は、出来うることなら机を投げつけて言いたい「へたくそ!!それでも芝居してんのか!その歌は何だ! それで金取るとは犯罪だぞ!」
遠藤小樓、いっそのこと歌は吹き替えにしたらよかったのでは? 他人が歌う吹き替えはあんまりなんで、ま、そこは自分で歌ったやつの良い箇所つぎはぎで。最近、そういう技術進んでるし。歌声はそれを流して、本人クチパク。どうよ。
ま、歌が下手なのは50歩譲って見逃すことにしよう。
遠藤憲一の本業歌手じゃないし、比較する相手がジャニーズ所属「少年隊」の東山だったから、なおさら下手に聞えたのかもしれないからね。
だが、譲れないのは演技だ。テメーは俳優だろうがよ! それであの棒立ち? ふざけんな。
段小樓としての気持ちの揺れは、どう表現してたんだよ。全く・ちっとも・全然、それは見えなかったぞ。小樓と程蝶衣(東山紀之)の少年時代のエピソードが(映画に比べて)大幅にカットされているからこそ、あの二人に何があり、どうだから、今こうなのかを台詞と演技で示さねばならないはず。なのに、その作業を遠藤は全くしていない。
何故、蝶衣が小樓を「兄さん」と慕うのか。その理由が見えてこないとイカンだろ。東山蝶衣がどんなに遠藤小樓を慕っている演技をし、事あるたびに「兄さん」と言ったところで、その台詞を受ける遠藤小樓が無反応では、東山蝶衣は単なるアホになっちゃうんだよ。
蝶衣を、大人になっても兄弟子の庇護を求め続けるはた迷惑なオカマしちゃったのは、ひたすらに遠藤小樓のせいだぞ。
きっとアレね、映像畑の俳優だから、全身で演技することが出来ないのね。自分の顔がクローズアップされたり、背中越しにカメラが迫っていたり、というアングルを自分勝手に作ってその中でしか演技していないのよね。そんなのは舞台では通じないんだよ。
小樓は、弟弟子の蝶衣、娼婦の菊仙(木村佳乃)、この二人に惚れられる男なのだ。だがその魅力を遠藤小樓から感じることは出来なかった。それどころか、二人の思いに対して小樓はどう感じ、どう振舞っているのかも皆目分からない。
またまた50歩譲って、男(蝶衣)に惚れられること、その関係性を上手く表現できないのだとしても、だったら菊仙という女性に対する思いはどうなのよ。「愛してる」と言ってはいたが、とてもじゃないがその台詞はマジには聞こえない。なんなの、それ。
例えば、袁世凱(西岡徳馬)が最初に登場したときの小樓のそっけない態度、あれは何?どういう心情だったの? 単に「口うるさい批評家は嫌いだ」だけなのか、それとも「あいつは口うるさい批評家で、しかもオレの蝶衣に色目を使ってやがる!」なのか。
袁世凱の誘いを断るのも、「政治家の相手は蝶衣に任せて俺はずらかろう。あとは蝶衣が上手くやるだろう」なのか、「悪いな蝶衣。政治家の相手はお前が上手くやってくれ」なのか、「悪いな蝶衣。袁世凱の色目は上手く振り切れよ!」なのか。
とにかく全てが伝わらないから、文化大革命での互いの告発が全く響かない。あの場面、クライマックスなのではなかったのか?
…ちっ。高いチケット代を払って私が得たのは「遠藤憲一は演技が下手だから、彼が出演している舞台を見てはいけない」という教訓なのかよ!
東山紀之のことは全く期待していなかったので、そのぶんは救いだったかも。東山蝶衣は何曲か歌うのだが、さすがにジャニーズだけあって、ちゃんと歌えているのは好印象。
ただし、女形としての仕草、ことに歩き方や肩の使い方はまるでなっていない。兄弟子の遠藤小樓や、京劇贔屓の政治家・西岡袁世凱よりも身長と肩幅のある東山蝶衣は、己を小さく見せようとして肩を丸めすぼめていたようだが、それは間違い。肩は後ろに反らし肩胛骨を合わせるようにして肩幅を狭く見せ、首を長く見せることで細く見せるべきでは?(歌舞伎を客席から見ていると、女形の役者さんはそうやって体を作っているように見える。そしてめちゃめちゃ膝を折っているのだ。)女形の体の使い方の基本は、もっときちんと習うべきでは?
今回の舞台で安心してみていられたのは西岡袁世凱と、2人?の本物の京劇俳優の立ち回り。せっかく音楽(宮川彬良)が良くできているのに、俳優陣がこれではお気の毒。
S席1万1千円とっておいてこの出来とは観客をバカにしている。
そして、ヒガシのファンも「ヒガシが登場しているだけでOK」ではなく、ヒガシの駄目なところもちゃんと指摘してあげて下さい。今回ヒガシが良く見えたのだとしたら、それは東山紀之が良い役者だからなのではなく、あまりに相手役(具体的に言えば遠藤憲一)がカスだったから、その比較でヒガシが良く見えただけのことです。その証拠に、西岡袁世凱との場面では、ヒガシは西岡徳馬に支えられていたでしょ?