飯守泰次郎指揮/東京フィルハーモニー交響楽団は健闘したと思う。
細かいことを言えば、金管がコケたり、ヴァイオリンがつんのめったりした部分もあったように思うし、全体的に低音の重厚さに不足を感じることもあった。それでも、序曲、ヴォータン(泉良平)が人間界を見下ろしている場面では世界の大きさが描けており、好印象。歌手が疲れを見せ出すとオーケストラが…というか飯守が、叱咤激励、煽ってなだめて持ち上げて曲を繋げており、それなりに納得できるレベルになっていた。
が、どうにも気になるのは演出(ジョエル・ローウェルス)と歌手である。
まず演出。
冒頭、ヴォータンが人間界を見下ろしている側で、少女時代のブリュンヒルデが走り回り、火の神ローゲが謎のぐねぐね運動をしている。ここでの少女ブリュンヒルデと火の神ローゲの登場は、『ニーベルングの指輪』の序夜『ラインの黄金』からの繋がり、そして第1夜『ワルキューレ』の3幕3場への伏線としては分かりやすいし、丁寧な説明であるとは思う。が、それは物語を知っているからこそ「丁寧」と思えるのであって、物語を知らない者にとって2人の存在は「唐突」でしかなく、まるで謎の少女Aと変質者Bである。
親切すぎる動きが物語を逆に停滞させているのは、ジークムント(大野徹也)とジークリンデ(増田のり子)が出会う第1幕も同じ。棒立ちで歌い、演技ともつかない棒立ちが連続する中にあって、やたらと小道具を出したり入れたりするジークリンデの動きは、其処だけが変にリアルで全体から浮いている。
舞台を前後に仕切る幕を動かすことで、室内と屋外、あるいは閉ざされた空間と背後に広がる荒涼とした世界を描き出そうとした演出・装置の意図は分かる。舞台空間を全体的に前へ押し出すことで(実際に舞台中央がオーケストラピットにやや被るくらいせり出している)、歌手を自然に前へ出していることも分かる。
けれどもそれは、狭い空間をも広く見せるだけの技量がある役者が揃ってこそ、広い空間をより一層広く見せることが出来るのであって、それほどの技量の無い役者(歌手)が多ければ、ワーグナーの世界がこぢんまりしてしまうだけのことだ。
私はこのオペラを見ていて、これは神々の長であるヴォータンと、その妻であり結婚の女神であるフリッカ(増田弥生)の壮大な痴話喧嘩の物語なのだと思った。問題はその「壮大さ」。どうも今回の舞台を見ている限りでは、「神々の長」という存在でありつつも、内実は妻フリッカの尻に敷かれているヴォータンの、とほほ物語としか思えなかった。
なにしろ、泉ヴォータン、声を出さずにどーん意味ありげにと立っている時は存在感を発揮するのだが、いざ歌い出すと急に背が縮むのである。先刻までの存在感は何処へ?と驚くしかない。あんなに一瞬にしてオーラが消えるなんて。声量もいまひとつ冴えず、時折オーケストラにかき消されていたし。
大野ジークムントは、場面場面で声質・声量ともに波があり、聴かせてくれる場面もあるのだがイマイチな箇所も多い。そして、不思議にアルファー波を出しまくっているようで、彼のソロ場面になると猛烈な眠気が襲ってくるのには驚いた。
そんな中、終始美声を披露してくれたのがジークリンデの夫であるフンディング(小鉄和広)。登場場面及び持ち歌が比較的少ないのだが、なかだるんだ大野ジークムントの歌声に小鉄フンディングが被さると、効果的な威圧感を発揮していた。私がテノール(ジークムント)よりバス(フンディング)が好きということを差し引いても、間違いなく1幕で輝いていたのは小鉄フンディングだった。
カーテンコールで大きな拍手を貰っていたのも、当然のことかと。
増田ジークリンデは、1幕は無難にこなした感じ、2幕は兄であり夫となったジークムントを心配しているのはわかるが、正直言って単なる妄想爆発女にしか見えずアホっぽい。演技・歌声共に説得力を持ったのは3幕でワルキューレ達に囲まれたとき。なるほどこの女なら母として生き延びるだろうと思わせる、力強さとしたたかさが見えた。
ヴォータンの妻である増田フリッカは、ヴォータンと同じく歌わずどーんと控えて立っている時の方が存在感がある。歌いだして極端に縮むことは無いのだが、理想を夢見る?ヴォータンに現実主義で反論するフリッカという構図としては甘さが残る歌声。
ワルキューレ(戦いの乙女)達は、トンボの羽根を縦長にしたような羽根を背負う。センスが良いのか悪いのか微妙な所だとは思うが、極端に縦長な羽根は(手を上に伸ばしたよりも少し上まで羽根があったと思う)、ちょっと旗を背負った戦国時代の歩兵のようでもある。『ワルキューレの騎行』の「ホートーヨー、ホー!」合戦は想定の範囲内。
ワルキューレの一人であるブリュンヒルデ(桑田葉子)は2幕で「ホートーヨー、ホー!」と登場するのだが…この最初の登場があまりに華が無く凡庸でがっかり。かなり豊満な見た目なので、それだけ大声量を期待したのだが、思いの外普通の声量でがっかり。
2幕2場で泉ヴォータンと桑田ブリュンヒルデの父娘口論は、互いに牽制し合うように精彩に欠ける。もともと私はこの場面でヴォータンが何を思い悩み言わんとしているのか全く理解できないのだが、その理解できなさも相まって、漫然と字幕を見るしか無くなる。
その後、3幕1場でジークリンデを連れてきたブリュンヒルデが姉妹のワルキューレ達に「助けて!」と訴える場面は増田ジークリンデとの相互作用も合ってか桑田ブリュンヒルデの声もさえ渡る。
が、3幕3場で再び父である泉ヴォータンと向かい合う場面となると、切々と訴える桑田ブリュンヒルデは何故か媚びに走る。父ヴォータンの気持ちを分かっているのは私だという自負が、ブリュンヒルデを支え、ヴォータンと対等に話をさせているのだろうとは思う。娘として父を愛する気持ちがあり、だからこそ父の心の奥にある想いに応えてジークリンデを助けたのだという誇りもあるだろう。が、ヴォータンに対し、時には甘え時には泣き、あるいは感情をぶちまけて正直にぶつかっていこうとする桑田ブリュンヒルデのその姿が、家庭を持つ男ににすがりつく愛人にしか見えない…。おいおい、ジークムント&ジークリンデの双子姉妹の近親相姦だけではなくて、ヴォータン&ブリュンヒルデの父娘近親相姦かよ!…ちがうだろ。
リヒャルト・ワーグナーの音楽は好きなので、それが流れているだけで私は簡単に幸せになれる。そりゃあ「ワーグナーの音楽はこういうふうに表現して欲しい」というイメージもほんのちょっとは持ってもいるけれど、まだまだ素人なので、曲の基本的な美しさだけで私は満足できる。
でもね、もともと芝居(物語)好きなので、登場人物が何をしようとしているのか、どう思っているのかという解釈は、オペラの音楽的解釈とは別にまた頭の中でしているわけで。そこんところの評価、区分の折り合いは自分でもまだつかない。
今回の上演、ワーグナーの音楽に4時間浸っていられたのは幸せだったが、それが素敵な舞台だったのかと問われると「フツー」としか応えようがない。