行き遅れた40歳の長女と、腰が悪くて一日ロッキングチェアに座って過ごす母。アイルランドの田舎町リナーンに閉じ込められていることへの鬱憤、老人介護で募る苛立ち、動けないことへの不安と不満、親子としての義務、罵りあうことにすら慣れていく生活。
娘モーリーン(大竹しのぶ)vs母マッグ(白石加代子)、二大女優の激突。
4人しか登場しない芝居において、大竹モーリーンと白石ハハの2人が主軸なのだから、確実に一定レベルを期待できるというのはありがたい。好き嫌いはあっても、大竹と白石ならば絶対に変な芝居はしないという安心感がある。
結果として「感動の嵐」ではなかったものの、すべてストンと納得できて気持ちが良かった。
たぶん、母マッグにとって、娘モーリーンをいじめることは、己を守る手段なのだ。足腰が不自由な自分の面倒を見てくれる娘を、何としてでも己のそばに引き寄せておくためには、モーリーンに思考する暇を与えないようにする。そして行き遅れてしまった娘モーリーンには「ブスだから貰い手が無かったわけではなく、母の言いつけを守り、面倒を見なければならなかったら、結婚できなかった」という言い訳すら与える。
一度ロンドンで挫折してしまったモーリーンにとって、アイルランドの田舎町リナーンは己を守ってくれる繭であり、己を縛る檻でもある。モーリーンもまた、母を言い訳にしてリナーンから出てゆかず、丘の上の一軒家に暮らしている。そして母を罵倒することで、再び出てゆく勇気の無い己を誤魔化している。
その罵りあう生活がいかに日常化し、罵ることも紅茶を淹れることも同列になっていることか。
爆弾を投げつけあっているそのままのトーンで「紅茶飲む?」と言ったり、相手を睨みつけたまま「クッキー食べる?」と聞いたりできるのは、それら本来は対極にある行動までもが日常である証拠。そしてまた、バトルの方向転換のタイミングとして紅茶やクッキーが登場するのが、この母と娘のパターン。怒ることに全力投球しなくても、バトルできてしまうほどの日常。
わかるな、これ。怖いわ。
近所の青年レイ(長塚圭史)の、善良朴訥なんだか単なる軽めの若者なんだかイマイチ分からない微妙なぐにゃぐにゃっぷりが、いとおかし。
レイの兄パートー(田中哲司)も、大竹モーリーン&白石ハハの間で右往左往しつつも芯があって安定。
ネタバレすれば、前半〜中盤はどことなく『ミザリー』+『ガラスの動物園』で、パートーがイングランドから戻ってきてからの中盤はちょっと『欲望という名の電車』で、最後は『トーチソングトリロジー』かな。
別にパクリという意味ではなくて。なんとなくどこか知っている世界を感じたな、と。
レイ役に出演予定だった黒田勇樹は、体調不良の為に降板。変わって演出の長塚圭史がレイ役。1982年生まれ・25歳の黒田の代役が、1975年生まれ・32歳の長塚圭史?
レイは「こんなことをしているうちに青春が過ぎてゆく」や「僕のボールを10年も!」等の台詞を言う役。つまりレイは20歳になるかどうか、どんなにギリギリ頑張っても25歳、の設定なのでは? それを、32歳の男が若作りして演じるのはかなり苦しいかと…お肌の張りとか。長塚は童顔ではないし、額の後退も気になるし…。
型のある古典演劇ではなく、現代性のある生々しい演劇だからこそ、そして長塚の演技も充分に満足行くものだからそこ、気になる。脚本(マーティン・マクドナー/訳:目黒条)も演出(長塚圭史)も美術(二村周作)も照明(佐藤啓)もいい感じに揃っているだけに、惜しい。長塚が童顔だったらな〜。
惜しいなぁ、実に惜しい!