ロンドンバージョンの前に上演された日本バージョンは、野田秀樹、秋山菜津子、近藤良平、浅野和之という配役で、前売りチケットは即日完売だった。ま、そもそも「野田秀樹の早口日本語を聞くのは嫌だな〜」という気持ちがあって、日本バージョンには興味なかった。そういう気持ちが薄い時は当然チケットが取れないわけで。
そんなふうに「へ〜?」と横目で見ていたら「悪意の増殖・連鎖が、後味悪くて・後を引いて面白い」「想像力の産物、演劇らしい試み。野田の勝利」とやたらと良い評判がネット上を飛び交っている。むむ、これは遅ればせながらロンドンバージョンを見に行かねばと腰をあげる。
そういえば私、前回観た野田が『ヤック トゥア デーン/「赤鬼」タイ・バージョン』で、やっぱり日本語上演ではなかったな。
サラリーマン・井戸(キャサリン・ハンター)が、息子の5歳の誕生日にプレゼントを買って帰ると、自宅は警察に厳重包囲されている。なんと、脱獄殺人犯・小古呂(おごろ/グリン・プリチャード)が井戸の妻と息子を人質に立てこもっているというのだ。
報道のリポーター(野田秀樹、グリン・プリチャード、トニー・ベル)にもみくちゃにされた井戸は、安直(あんちょく/グリン・プリチャード)刑事の運転するパトカーで、小古呂の妻の家へ。小古呂の妻(野田秀樹)と息子(グリン・プリチャード)を人質に、小古呂との交渉に乗り出す。
しかし、小古呂は井戸の家を出ようとしない。被害者・井戸は立場を逆転させ、脱獄殺人犯・小古呂を脅迫。小古呂Jr.の指を切り、百百山(どどやま)警部(トニー・ベル)にそれを届けさせる。が、小古呂からは井戸Jr.の指が百百山警部によって届けられ…。
正直言って、期待していたような「悪意の増殖・連鎖」は感じられなかった。そもそも「悪意」の存在自体を感じなかったし。
そのかわり私が感じたのは、ひたすらに悲しい人間の感覚。
被害者Aが泣いたり激怒したりしないと、A氏が被害者であることを視聴者が認識出来ない。悪意とか、TVの前での熱狂とか、犯罪者の狂気とか、お決まりの料理番組とか、木曜日はセックスする日とか。全てパターンを踏まないと、自分がそういう状態であると感じられない。
逆に言えば、木曜日にセックスすれば、その相手が自分の妻ではなく小古呂の妻とのセックスであっても、妻との木曜日を感じられる。いつものコックが簡単料理を紹介する番組さえ見ていれば、それが人質をとっての立てこもり中でも、いつもの日常になれる。
本来は犯罪者の妻であった小古呂の妻は、立場を逆転して井戸に脅される人質となり、そこからさらに井戸の妻的な役割を演じてゆく。朝食を作ったり、夫のジャケットにアイロンをあてたり、子供を可愛がったりという妻という日常の行為が有る限り、相手が脅迫者・井戸であっても、小古呂妻にとっての平和な日常という記号は成立する。
脅しあいをしているはずの井戸(と小古呂)も、いつの間にか互いの息子(後には妻)の指を切断して相手に送りつける行為を繰り返すことに慣れてゆく。そして、慣れが「平和な日常」を描き出す。
一度タガが外れ、慣れてしまえば「自分は犯罪者っていうキャラクターじゃないんですよ!」と言っていた井戸でさえ、淡々と犯罪行為を繰り返してゆく。悪意の連鎖・増殖というより、慣れの構造。感覚の麻痺。
そして見ている私自身、井戸は小古呂Jr.及び小古呂妻の、小古呂は井戸Jr.及び井戸妻の指を送りつけているその異常な報復合戦すら、まるで愛の交換日記のようないつもの光景に見えてくるのだ。なんといいうこと。これが麻痺した狂気なのか。…なるほど、こわいな。
野田・小古呂妻が己の指を「切って」と差し出した時の、そして指を入れる封筒を嘗めて封をする時の、あのなんとも隠微な目。
小柄なキャサリン井戸が野田・小古呂妻を犯す時の必死さ加減や、朝起きての洗顔、身だしなみを整えるそのルーティンワークへの執着。
どもりの犯罪者・グリン小古呂の背中に漂う切迫感と、野球帽が可愛いグリン小古呂Jr.の甘えた表情。
トニー百百山警部の、解決を放棄した…というより事件そのものが日常化したすえの、淡々とした足の運び。
全編英語のため、舞台両サイドには字幕がつく。途中までは字幕を追っていたが、話の流れが見えてきてからは私は字幕を読まなくなった。別にそれは英語が聞き取れるからではなく(それどころか1つの台詞のうちに1単語すら聞き取れていない事の方が多かったが)、演技そのものに釘付けだったから。
ところで。ちょっと気になるんですけど、小古呂が5歳の息子のために用意した(ようするに盗んだ)電卓は、どこのメーカーだったのでしょう?
サラリーマン井戸が「カシオの電卓だ」と言ったのに対して小古呂は「そんな2流メーカーはダメだ」と言っていたけれど。英国・ロンドンだけに、シンクレア社(英国)かしらん?気になる〜。
そして、気になるといえば、ハチャトリアン『剣の舞』をパクッタ「好きか嫌いか、嫌いか好きか、はっきり言いなよ今すぐ目の前で〜♪」という歌。妙に頭に残って気になる〜。