<鳴神>
いたしかたないとはいえ、やはりどうも鳴神上人(染五郎)の線が細いのが気になる。特に前半、神棚に向かって祈っているその後ろ姿の細さには、とてつもない違和感さえ漂う。こちらに向き直ってからも、若くて麗しい顔に、「いやー、この顔は上人ではないでしょー。どっちかっつーと、お稚児さん?」とまで思ってしまう。
それなりに綺麗な所作を見ているうちに、なるほど鳴神上人ってのは純粋培養お坊ちゃま坊主だから、ジコチューなのねと納得。雲の絶間姫(芝雀)の艶話やら仮病に騙されて堕ちる様子も、名僧が堕落するというより、思春期の優等生坊主に訪れた春の目覚めに見えてくる。
ま、そーゆー鳴神上人像もありだな、と。
ぶっ返って隈取りも荒々しい姿になってからは、若さ・勢い・豪快さに気持ちよく酔う。
この芝居は何度も見ているのだが、今回初めて雲の絶間姫の艶話が面白いと感じた。
芝雀の目元やら表情が、80歳過ぎて尚艶めかしい雀右衛門に似てきて、そのたっぷりとした芝居が雲の絶間姫に似合う。いかにも男を落とす手管を知り尽くした熟女が、勅命を受けて鳴神上人を堕落させに来たのだという風情がある。
「花見をしていたら幕の向こうでイイ男がこっちを見ていて…歌をもらって…橋も船も無い川を裾をからげてざぶざぶ渡って…男はすぐさま家に入れてくれて…」語りながらもチラチラと飛ばす視線の色っぽさ、言葉の端々に匂う色恋の甘さ、大胆になる煽り。わくわくするじゃないか。うひひ。
池波正太郎の代表作であり、TV時代劇でも吉右衛門版『鬼平』として人気の作品が、人情モノ(世話狂言)として歌舞伎になった。勿論、長谷川平蔵役を勤めるのは中村吉右衛門。
期待半分不安半分での観劇だったが、見終わってみると、原作とTV版の雰囲気を踏襲しつつ、新しい舞台になっていると感じた。やはりそこは、何十年同じ舞台を踏んでいる歌舞伎俳優同士のアンサンブルの妙というやつだろう。
TVからのファンにとって驚きなのは、TV版では与力役を演じている歌昇が、舞台では密偵の粂八を演じているということ。しかし、さすがは歌昇、吉右衛門の脇に回って受けて固める役はお手の物。
福助の長谷川久栄。キリリとした面と、平蔵の前でグッと砕ける面とのメリハリが鮮やかに出ており、修羅場をくぐった奥方様らしさがあった。
与力・佐嶋忠介(段四郎)、同心・酒井祐助(錦之介)、同心・木村忠吾(松江)が、出番は少ないながらカッチリと慣れた所作を見せる。岸井左馬之助(富十郎)はほとんど「通りすがり」のような役ながら、さすがに場にいるだけで平蔵との温かい関係が見える。
しかし、何と言っても素晴らしいのが船頭・友五郎(歌六)。キセルの扱い、船頭としての櫂裁き、元盗人らしい直線歩行、二八蕎麦に化けての退却、「ウヒヒヒヒ」の笑い声。随所に「らしさ」と工夫があって、嬉しくなる。
嬉しいと言えば、初鰹や花菖蒲による季節感、そして「大川の隠居(鯉)」の登場も観客を気持ちよくさせてくれる。
鬼平と友五郎が差しつ差されつ初鰹を食べながら語り合う最終幕。こちらとしては、いつ、友五郎が「さばけたお侍さん=鬼平」と気づくのかに注目してワクワクしているのだが、なかなかオチにたどり着かず、長さを感じてしまう。
芝居としては、人情オチにするための手順やら、原作の名台詞「人間という生きものは、悪いことをしながら、いいこともするし、人にきらわれることをしながら、いつもいつも人に好かれたいとおもっている…」by『鬼平犯科帳/谷中いろは茶屋』 を言わせたいのは分かる。だが、人情話の部分をもう少しさらりと流しても良いのではと思う。
昼の部1番の出来は『釣女』。
太郎冠者という役は、役者によってはもっとパワフルに演じたり愛嬌を全面に押し出すこともあるのだが、歌昇のそれは出しゃばらない芝居と魅せる踊りが、松葉目物らしい品と大らかさを生み出している。
これを受ける大名某(錦之介)、上臈(芝雀)、醜女(吉右衛門)がそれぞれの雰囲気を大切に丁寧に演じているのも好印象。貴公子然とした大名某の爽やかさ、いかにもおっとりぽったりとした上臈のカップルは、夜の部『法界坊』に続く目の保養。新・錦之介にはやはり(先月の襲名披露の役々よりも)大名某の方が似合っているように思う。
醜女は、配役表を見ていなければ吉右衛門と分からないだろう化けっぷり。女形を勤めるには大きすぎる背を小さく折ってしなだれかかる様子は、吉右衛門の愛嬌炸裂と言ったところ。しかしながら「錦ちゃーん」のかけ声は、ちとやりすぎ。