蜷川演出による男性俳優だけ(オール・メール)のシェイクスピア第3弾。彩の国シェイクスピアシリーズとしては第17弾である。
シェイクスピア作品というのは、タイトルすら知らない作品、あるいはタイトルは知っているけれど物語を薄らぼんやりとしか知らないものも多く、そういうなかなか日の目を見ない作品も上演してくれるのはありがたい。(と、いいつつ、先日の『コリオレイナス』は見送ったのだが…。)
『恋の骨折り損』は、タイトルは知っており、物語も「3年間女を遠ざけるおふれを出した王様と家来3人のドタバタ」というコトは知っていたし、「最終的には4組のカップルができる」ことも分かってはいた。が、その間の肝心の出来事として何が起きるのか、となると心許ない状態。蜷川の手慣れた演出&男優陣のがんばりに期待して埼玉へ。
1幕終了後、私の後ろに座っていたおじさんは「長かったね〜」と声を挙げ、連れの女性に「終わりじゃないです。休憩時間ですよ」と言われて「え〜?まだ続くの」とうんざり声だったが、それもいたしかたないかと。
というのもこの芝居、本筋である男4人×女4人の物語の脇で、脇とは思えないくらい延々と道化役芝居と言葉遊びがある。なので、男女4人はどうなる?と本筋だけを追いたい人には脇が長すぎるのだ。
言葉遊びも、洒脱な連想ゲームと言うより(これはたぶん仕方のないことなのだろうけれど)単なるダジャレ合戦になってしまう。洒落たシャレとオヤジギャグは紙一重で。オヤジギャグを連発されるとうんざりするのは人の世の常。
ああ、そうか。だからタイトルが有名なわりにはあまり舞台にかからない演目なのか。
道化の場面を全面カットして本筋だけ上演する、というのも1つの選択ではあると思う。だがそれをせずに、きちんと全部見せようという演出・蜷川幸雄の意気込みは、買おう。但し、それで成功しているかというと、甚だ心許ないと言わざるをえない。
シェイクスピアに敬意を払って、猥雑&オヤジギャグをカットする勇気も必要では?蜷川さん。
何しろ、筆頭道化である珍妙なスペイン貴族ドン・エイドリアーノ・デ・アーマードー(藤田びん)の芝居が…私にはダメだった。なんだかとっても作り物臭い。わざとアホやってま〜す、俺だけ白塗り+麿眉?+似非ナマズ髭で、バカっぽくしてま〜す、この見た目でオールOK、そこんとこ4649!みたいな。
道化役というのはたぶん2種類ある。1つは素がアホなので周囲から道化者と見られており、徹して徹底的に徹頭徹尾一から十までアホな道化。もう1つが、王様に仕える道化「役」として、頭脳フル回転で道化を演じる人物になるか。この貴族はどちらにしても中途半端。見苦しいオヤジの見苦しい姿にしか見えない。
面白い道化姿の見本はたくさんあるぞ。2005年7月『NINAGAWA十二夜』での安藤英竹(サー・アンドル・エーギュチーク)役の尾上松緑とか、2005年11月『児雷也豪傑譚話』で人間国宝・尾上菊五郎が演じてみせた奥方とか、2006年7月の『あわれ彼女は娼婦』でのバーゲット役の高橋洋とか。
お願いしますよ。シェイクスピアにおける道化役って重要な位置付けなんで、少なくとも私の中では。
誓約書や手紙を読む台詞をラップ仕立てにしたのは工夫。これは純粋に韻を踏む面白さを聞かせてくれるし、ぶっちゃけ多少聞き取れなくても「ラップ、だから(ぼむぼむ、ずだずだ)it's OK」と許せてしまう。
オタジ達がラップしきれていないのはご愛敬、で微笑ましくはある。但し、最初の10秒限定で。これを過ぎると観ていて苦しいというか、いたたまれないというか、切ないというか。謡?義太夫?風にやってくれた時の方が、(あからさまに胡散臭いモノではあったが)オヤジらしいノリで好感。
さて肝心の男女4人。
ナヴァール国王ファーディナンド(北村一輝)いかにも、フランス王女(姜暢雄)デカっ。
ビローン(高橋洋)長い台詞を的確に、ロザライン(内田慈)お笑い女優の腕を上げたか。
デュメイン(窪塚俊介)は清々しく、キャサリン(中村友也)はそばかす美人。
ロンガウィル(須賀貴匡)は勉強家でウブ、マライア(月川悠貴)はクール美人。
今回の殊勲賞は田舎者コスタード(大石継太)。
舞台全体を覆う巨大な柳に照明の色を変えることで場面を移す美術(中越司)と照明(原田保)が好印象に技能賞。
優秀俳優賞には、弁舌巧みで運動能力も高い高橋ビローンと、ガハハ笑いでも女優だった内田ロザラインのカップルに。