自称☆芝居道楽委員会

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コペンハーゲン

2007年3月9日(新国立劇場・小)

中央に円形の舞台。その外側に土星の輪のようなドーナツ形の舞台(通路)がゆるい傾斜でかかる。その外側は半円の灰色の壁、中央には穴が開いていて時折光が差し込む。まるで3人が原子炉の中にいるように見える装置(島次郎)。舞台上には椅子が3脚と3人の役者。そして、台詞にあわせて印象的に陰影をつける照明(服部基)。
これ以上足すことも引くこともできない演出(鵜山仁)。猛烈な台詞量。緊張と緩和、猛スピード・直滑降で滑り降りたかと思ったら不意に止まって沈黙が訪れる。

登場人物は3人。ドイツ人物理学者ハイゼンベルク(今井朋彦)、ユダヤ系デンマーク人のボーア(村井国夫)、ボーアの妻マルガレーテ(新井純)。ハイゼンベルグがボーアを訪ねた第2次大戦末期、原爆開発に各国が突き進もうとしていた1941年の1日を、今は亡き3人が、死後の世界において振り返る。
これは、単なる物理学の芝居ではない。科学の発展と、道徳・人倫と、歴史に関わる芝居である。

物理学用語がガツガツと飛び交う。相補性原理、シュレーディンガーの猫、不確定性原理、コペンハーゲン解釈、量子力学、ウラン235、原子核…。
高校物理は好きだったけれど、今では微分さえ覚えていない私には、量子力学などと言われてもちっとも分からない。分からなくて難しい話を聞いているハズなのに、何の抵抗もなく頭に入ってくる。だって、これは物理だけの話ではない。物理学用語を使った哲学問答をしているような、つまりは根源的には人間の関係性を、人間の心理を語っているのだ。

科学者の探求心と原爆開発。 敵国に開発されてしまっては自国に原爆が落とさる。落とされた原爆によって1つの都市がまるごと破壊され、人が死ぬ。それが分かっていても尚、原爆を開発するのか、否か。原爆の驚異的な威力、愛国心と人道的葛藤。原爆開発の鍵を握る原理を掴んでいるのは世界に数人の物理学者だけ。
決断を迫られる時は迫っている。想像されうる未来の荒れ果てた自国の都市、それを避けうる手段としての原爆。原爆を開発することも、開発しないことも、ハイゼンベルクの肩に重くのしかかる。そして、直接的ではないにせよボーアにもその重みがかかろうとしている、そんな1941年の秋の1日。
とてつもない歴史の勢いの中で、一人の人間の力というのはどれほどのものなのか。そして原爆は、ハイゼンベルクのドイツでもなく、ボーアのデンマークや与する側?のアメリカやイギリスでもなく、日本のヒロシマに落ち、ナガサキに落ちる。

グラグラと心を揺さぶられる。泣くことも、目を背けることも、悲鳴を上げることも、許されない緊張の連続。重みに押しつぶされ、思考停止に陥りそうになるが、しかし「考えろ!」「見つめろ!」と舞台は言う。私は脳みそをフル回転させて芝居についていった。
役者が3人しかいないとは思われない空間掌握力で、役者達は観客を引き込む。
語られる台詞の重みに耐えながら、一瞬たりとも気を抜けない時間を過ごす。
ハイゼンベルクがボーアに議論をふっかける時は、自分がハイゼンベルクに挑まれたような気分になる。マルガレーテがハイゼンベルクを批難すれば、それは自分に降りかかってきた台詞のように聞こえる。ボーアがハイゼンベルクをいなすと、自分が軽くあしらわれたように思う。

ハイゼンベルクもボーアもあの1日のあの一瞬の意味をなかなか思い出せない。それは、心の奥底にしまい込み…いや、表層に表れることすらなく封印されていた記憶。無意識の中の選択。
観客は、この戯曲を書いたマイケル・フレインの結論に一条の光を見いだすが、それでも心がグラグラと揺れたまま劇場をあとにする。この、今の感情は、文字にはならない。もし文章にしようとすれば、それは丸まま脚本を写すしかないのだろうが、それとて役者や演出といった時間と空間を再現することは不可能だ。
言葉の威力と無力を思い知らされ、性善説を信じようと思えた舞台だった。観てよかった。これを観たことで私はまたひとつ知りたい世界が増えた。

今は、猛烈に、この脚本を読みたい。上演台本の販売を希望します!

<補講>新国立劇場「コペンハーゲン」紹介ページより引用
相補性原理=「量子力学においては、『粒子』と『波動』といった互いに排他的な概念は同時に互いに補完的であり、そのどちらか一方では完全な記述はできない」というボーアが提唱した原理。
不確定性原理=「粒子の位置と速度を同時に正確に測定することはできない」というハイゼンベルクの原理

採点:★★★★★

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