自称☆芝居道楽委員会

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パルコ劇場「新」スタンダードシリーズVol.5
「フール フォア ラブ」

2007年2月22日(PARCO劇場)

お目当ては勿論、寺島しのぶ&香川照之のバトル。
寺島しのぶは尾上菊五郎の娘、香川照之は市川猿之助の息子。なんか、こぅ、血縁の業を肌身で感じて知ってそうなあたりも興味深い。なんたって異母兄弟の恋愛の話だし。

不安要素は演出のギョーテー君(行定勲/ゆきさだ・いさお)。誰、それ? …って、いや、名前は知ってるけど、映像の人で、今回が舞台初演出でしょ。う〜ん。
まぁ、ギョーテー君が『フール…』を選んで、ギョーテー君が香川と寺島を選んだらしいから、ギョーテー君なりに思うところがあって、目指す舞台像が有るんだと思うけど。でもやっぱり、映像と舞台では役者の動き方が違うように、映像と舞台では演出(芝居の見せ方)が違ってくるはずで、そこんとこをギョーテー君がどれだけやってくれるのか不安だった。
その不安は、不幸にして的中する。

舞台ははニューメキシコのモハベ砂漠にポツリと建つ、さびれたモーテルの一室。物語の前半は、ボロボロやさぐれカウボーイ・エディ(香川照之)と、エディに振り回され振り回すメイ(寺島しのぶ)の痴話喧嘩が延々続く。
「出て行ってよ!」「お前に逢うために2480マイルも走ってきたんだぞ!」「頼んでないわ」「分かったよ」「何が分かったのよ…どこへ行くの?」「トラックから荷物を下ろす」「ここに転がり込まないでよ、冗談じゃないわ」「じゃあ、出ていくしかねぇな」「…行かないで!!」
そんな芝居を最前列で観てしまった。

確かに「素」で文字だけを追えば、メイの言っていること「出て行って!」と「待って!」は矛盾しているし、エディだってわざわざ会いに来たわりにはあっさり立ち去ろうとしてみたり、一体どうしたいのよあんたら!ってことになる。
でも、実際に舞台を見ていると、そんな矛盾も全て飲み込んで、嗚呼なるほど二人はそうなんだ、と思える。
離れたいけど離れられない、愛しているけど愛してない、受け入れてるけど拒否している。私はこんな恋愛をしたことがないので、実感があったり共感できたりするわけではない。でも、逃れられない恋愛の深みにはまったら、こうなってしまう…というか、こんな風にしかならないんだろうなと、思える。どうしたら二人がこの泥沼から抜け出せるのか分からないし、どうなれば良いのかも分からない。でも、エディとメイの二人はこうするしかないんだという、説得力がある。何なのだ?この演技って。

そういえば、部屋のドアを閉めるたびに、実際の音にプラスして「ドーン!」と反響音が効果音として入った。私は最前列だったのでかえってスピーカーの音が聞こえにくく、それほど耳には響かなかったが、たぶん観客の多くはあの音に「えー?」となっただろう。
ちなみに、この反響音については戯曲のト書きに書かれている。例えば、メイがエディの股間を蹴り上げてバスルームへ引っ込む箇所にはこうある。
「下手のバスルームへ引込み、ドアをバタンと閉める。ドアの音は壁の中に仕掛けてあるマイクとバスドラムで増幅されるので、俳優がバタンと閉めるたびに大きく長く反響する。上手のドアも同じである。」byサム・シェパード/安井武・甲斐萬里江(訳)『フール・フォア・ラブ』 サム・シェパード戯曲集/(株)テアトロ/1990年
うん、だからね、戯曲に忠実なんだろうけど…。安モーテルのドアがバタンと閉まった時の音って、あんな音?違和感があったなぁ。私には鉄格子の、イメージとしては刑務所の独房への廊下の扉が閉まったような音に聞こえたけれど。…それを、狙ってるの?心の扉を閉めた音と合わせて?

ト書きといえば、老人(大谷亮介)のロッキングチェアの位置が戯曲の指定と全く逆なのは何故?
戯曲には「上手舞台端のテーブルと椅子のさらに上手側に舞台と同じ高さの小さな張り出しがあり、床は黒で台のまわりは黒幕でふちどってある。張り出し舞台には唯一つ楓のロッキングチェアがあって下手奥向きに置かれている」と書かれ、また「ロッキングチェアに老人。下手奥を向いて座っているので、観客にはかすかに横顔だけが見える」とも書かれている。
でも、実際には「舞台下手側に」ロッキングチェアがあって、「上手向きに」チェア置かれていたんですけどね。また、上手側最前列にいた私には老人の顔がほぼ正面から見えたことからも、たぶん老人は「上手向き」しかも観客から見てほぼまっすぐ横向きに座っており、多くの観客には「はっきり横顔」が見えていたと思う。
そんなこと演出の解釈で変更できるんだよ、と言われればそれまでなのだけれど…。

メイの逃げ場であるバスルームは下手(ドアの向こう側で見えない)。エディがテキーラを煽るテーブルは上手。この位置は戯曲のト書きにあるとおり。
それが、老人の位置だけ逆になると、距離感とか視線の向きが違ってくると思う。

例えば、ト書きの通りに老人が上手側にいて、下手側を向いて座っていれば、メイが下手側バスルームに引っ込む時に老人はメイの背中を見ていることになり、メイがバスルームから出てくるときはメイの顔を見ることになる。つまり、老人の視線はメイを待つエディと重なる。
だが、実際の舞台では、老人は下手側にいて、上手側を向いて座っていた。よって、メイが下手側バスルームに引っ込む時に老人はメイの顔を見ていることになり、メイがバスルームから出てくるときはメイの背中を見ることになる。つまり、老人はメイの逃げ場=メイの心理側に近くなる。あ、れ??

違うといえば、老人のロッキングチェアの位置が違うために、エディの話に老人が割って入るタイミングも戯曲とは違っている。
ト書き通りに老人が上手側にいれば、上手側のテーブルでエディがメイとの馴れ初めをマーティン(甲本雅裕)に話す時、エディは自然に老人と近くなる。あるいはエディが物語ろうとしたことで、自然にエディと老人が近くなったと言い換えることもできるだろう。また、老人がエディにテキーラを所望しても、ほんのちょっとの距離で二人の世界は繋がる。
そして、老人がエディとメイの世界に自ら足を運んで割り込むのは、ラスト「(エディに)立て!立つんだ!わしは男の言い分を聞きたいんだ。お前がわしの身代わりだ。わしの代わりにしゃべってくれ」と言う場面になる。老人にしてみれば、エディから老人(上手側)に近づいてきて物語っておきながら、ここで老人の立場を弁護してくれないのは酷い、ということになり、またエディも老人を裏切っていることを認識していることになる。

だが、実際の舞台では、上手側のテーブルでエディがメイとの馴れ初めをマーティンに話す時、老人は下手側のロッキングチェアから自ら足を運んで上手側のテーブルに近づき、テキーラを所望する。つまり、エディが物語ることで老人に近寄るのではない、エディが物語ることで老人が勝手に近寄ってくる。エディの意志(深層心理)に反して、老人が近寄ってくるのだ。
また「お前がわしの身代わりだ。わしの代わりにしゃべってくれ」という老人の台詞は、老人の身勝手に聞こえる。そもそも老人が自分の意志で上手側に来て、勝手にエディ側についたのであり、エディは何も老人の味方だという動きをしたわけではない。それを「男の言い分」という理由で老人に責められても、エディにしてみれば迷惑至極であろう。

そもそも 老人は、エディとメイにしか見えない、エディとメイの心の中の存在である。しかも、どちらかといえばエディ寄りの存在である。この老人をどう見せるか、この老人をどう観客に解釈させるかが、演出の腕の見せ所だろう。
では、戯曲の指定(ト書き)から離れて解釈した、この演出の意図は??残念ながら私には理解できない。

実は、私はこの舞台を見て、エディとメイは実際には異母兄弟でもなんでもない、神や世間に対して何ら恥じることのない、一般的な男女の関係なのではないか?と思った。
エディとメイが苦しんでいるのは近親相姦だからではなく、この愛の先が見えているから。エディの行き着くところは放浪する父、メイの行き着くところは愛する男を追いかける母。そしてその結果は不幸しか呼ばないことを、エディもメイも親の背中を見て知っている、だから、別れようと思う。でも、別れられないから、苦しい。
(役者の芝居がそう見せたということもあるが、私が異母兄弟間の恋愛を(こと物語においては)「禁断の愛」「倫理に反する愛」としては捉えていないことも、理由に挙げられるだろう。)

そして、エディとメイ恋愛が、愛憎が、何かの業があると考えなくては不安になるくらい深いものだったので、そしてお互いに放浪する父を持っていたために、お互いがお互いの「片割れ」であることの理由として異母兄弟という物語を構築したのではないかと思った。だからこそ、二人の物語、二人の心の中だけに共通の父親としての老人が存在するのではないか、と、思えた。
エディの母のことで老人が絡んできた時に「あんたはいなかったんだ」とエディが言うのは、「あんたは(その場に)いなかった」という意味ではなく、「あんたは(そもそも実在して)いなかった」という意味に聞こえた。「あんたのショットガン」というのは「エディの父の代理である老人の」ショットガンではなく、舞台には登場しない「実在のエディの父の」ショットガン。
そして、老人の実在をエディとメイが共に否定し、異母兄弟ではない男女としての関係を受け入れたうえで、抱き合い、キスをし、別れたのだと思った。メイが「行っちゃったのよ」と言うのは、「(異母兄弟ではないから他人になれる、だから別れられるから)行っちゃったのよ」と聞こえたのだ。

では、最後に残った老人とは?たぶん、それは、夢(妄想)の残り香。
存在しないはずのモノが自己主張したことで、棲むべき心(エディとメイ)を失い、エディとメイの共通の父親としての老人は消えてゆく。そして、エディとメイの心の中にいた共通の妄想の父(=老人)は消えるが、しかし、その老人(妄想)は実は全ての人の心の中に棲んでいる。

私は戯曲の読み方を知らないし、演劇論を勉強したわけでもない。だから、何がどうであるのかと理論を組み立ててこの戯曲と演出を読み解くことは出来ない。それが分かっていて何故舞台と戯曲と比べるのか?と問われれば、それは、あまりに不思議だったから。何故、舞台がこうなってしまったのか、そのヒントを得たかったから。
香川エディ、寺島メイ、甲本マーティンが良い演技を魅せてくれたのに、観ている間は「ああ、そうなんだ」と何度も頷いたのに、劇場を出て芝居を思い返そうとしてもイメージがサラサラと流れてい行ってしまったのは何故なのか。
老人大谷も決して×ではないハズなのに、何だかどう受け止めればよいのか分からないままに終わってしまったのは何故なのか。
戯曲を読んで舞台を思い返すとドキドキするのに、その端々に違和感を覚えるのは何故なのか。

決して最初からギョーテー君を色眼鏡で見るつもりは無い。それでも、いろいろ考えてみると、どうしても、この芝居が最終的に「ドカン!」「ズキン!」と来ない理由は演出のせいだと思える。
どんなに脚本が良くても、どんなに役者が良くても、演出が世界を作って導けなくては舞台は成功しない。これはその見本なのではないだろうか。とても、とても、残念なのだけれど。

採点:★★☆☆☆

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