3月に六本木で観たチェルフィッチュ『三月の5日間』が面白かったので、同じ演出・脚本(岡田利規)で同じ劇団+αの役者なら面白そうだと思い、新国立劇場へ。
結果的には、う〜ん、さっぱり楽しめなかった。一般演劇の上演中に寝たのって久々だな。1幕目が終わった段階で「あとどれだけ続くんだよ…」と軽くブルーになったのも、めちゃくちゃ久々。
チェルフィッチュは、というか岡田利規は、超現代口語+ト書きのような会話のようなダラダラ長文台詞+不可思議な動き、という風変わりな手法で舞台を見せてくれる。
これ、初めて観ると「うわ〜、なにこれ〜」で面白く観られるし、「ちょっとクセになるかも〜」とも思う。でも、あまりに目新しく通常から逸脱したモノというのは、2回目に観ると「あ、またアノやり方」と見えてしまい、飽きが来るのが早い。少なくとも、今回の私はそうだった。
アノ手法で来るとは分かっていたし、それを楽しみにしていた面もある。だが、実際に客席に座って舞台が始まったのを観たとたん「え〜、まだ、ソノ手法やってんの〜?ソレ古いよ。新しいコトやってよ」と思ってしまった。
ついでに言うと、私は、髪の長い女性が自分の髪の毛を手櫛しながら喋る姿が嫌いなのだ。
なのだが、今回、そういう仕草で喋りづける女性が登場したのである。あ〜も〜、いつまで自分の髪の毛といてるんだよ。ほつれが気になるならブラシとか櫛とかでちゃんととけよ。髪の毛がじゃまなら切れよ。イライライライラ…。
更に、これまた完全に私の嗜好の問題なのだが…。「××世代をリアルに描く!」といった類の物語が私はあまり好きではないようだ。ことに「私の世代」が描かれていると称しているモノは、どうにも苦手だ。
今回は、マンガ喫茶でアルバイトをしている30歳の男3人が登場する。私だって身分はアルバイトだし、30歳どころか30代半ばで自宅住まいだし、此処に描かれている人たちと被る部分はある。でも、「これが貴方の世界ですよ」と見せてくれるその世界から、私はズレてしまっているらしく何も共感できない。それどころか、同世代のリアルなこと(と称しているコト)が、私には別の世代の違う現実としか思えない。
単純なこととして言葉が通じない。例えばマンキツ(マンガ喫茶)とか、マンキツにシャワーが在ることとか、りらっくま(キャラクター)とか。
次の段階として、心理がわからない。
社会的な現象(状況)だからそれを一般的なこととして捕らえて目の前に再現してくれているわけだけれど、其処に示された人物像は逆に、その人の個人的事情にしか見えない。だから「私はこの男とは違う理由でアルバイトという身分をやってるけどね」って思っちゃう。別にこんなことでわざわざ自分を正当化するつもりもないけどさ。そうなると、もう、登場人物の心情を自分の中に取り込むことが出来なくなるね。
「小学校の幼馴染みらしき人がバイト先のマンガ喫茶に来て、その人はサラリーマン然としていたけれど、対する自分はバイトだと思うと凹む」ってのは、わかる。わかるけど、だから何?「フリーターとかって、社会から軽く蔑まれているのは知ってるけどー。将来のこととか不安だけどー」って、だから何なのよ。
30代・フリーターってアタシもそうだけど、それで十把一絡げにされてもね。そ〜ゆ〜中でそ〜ゆ〜ふ〜に悩んでいる人もいるし、そ〜ゆ〜悩みとは無関係でフリーターしてる人もいるし、もっと意識的にフリーターな人もいるし。でしょ?
何でアタシが、そ〜ゆ〜人たちと悩みを共有して、共感して、そういう現実を見据えて、しかも演劇の中にそれを観て、何か思わなくちゃいけないの?わかんないぞ、全然。
しかもオチは「恋人と一緒にいるってだけで幸せ」って…。オイ、さんざん前振りして、其処かい。
ど〜でもイイことだけど。
劇中「夜遅い時間帯の駅構内とかで抱き合ってる男女がいると、たいていは男が壁側で、女が男のお腹とか胸に頭突きをしている」というような内容の台詞があったのだが、そうなの?
確かに女が頭突きをするには男が壁側の方がヨイのは分かる。でもイメージとして、抱き合うなら女が壁側だと思ってた。だって、壁側の人間の方が守られてるでしょ。人が多く行きすぎる通路に背を向けて立つのは、ものすごく無防備だよね。男は人の流れから女を守り、更に女の背中は壁でガードしたうえで、抱き合ったりするんじゃないの?
え?違うのかな。いや、あくまでそういうイメージだったんですけどね。
あ〜、でも、女の方が「ハグ〜!」って甘えて男を壁側に押しつけるんだろうか。
で、気になるので帰りの駅構内でそれとなく目を配ったところ…3組の抱き合いカップルを目撃。1組は劇中の台詞の通り男が壁側で女が通路側、もう1組は抱き合った男女はお互い体の側面を壁にもたせかけていて、もう1組はホームのど真ん中で抱き合っていた。う〜ん。
人間観察って面白いですね。