どういう物語なのか全く予習せず、チラシ裏面の解説文も読まず、某演劇雑誌に主演の浅野和之のインタビュー記事が掲載されていたがこれもあえて読まず。とりあえず、『ブラウニング・バージョン』の浅野ならこちらを唸らせてくれるだろうという期待でもって劇場へ。
そんなふうで全く何も考えずにチケットを購入したのだが、劇場についてみれば「その業界」の人らしき人々が意味深に挨拶を交わしている。どうやら初日だったらしい。
第1場:ブルックリンの病院、エリック(浅野和之)は末期ガンの父マニー(織田順吉)を見舞う。
第2場:病院のカフェテリア、エリックは幼馴染みアイラ(石田圭祐)に出会う。
第3場:妻の現在のアパート、エリックは妻ニーナ(神野三鈴)に久々に会う。
第4場:ホテル、エリックはファンの女性アリソン(月影瞳)を「お持ち帰り」する。
第5場:ハリウッドの事務所、エリックはプロデューサー・メラニー(阿知波悟美)と若手人気俳優タイラー(今拓哉)と会う。
第6場:実家、エリックは父の遺品を整理。父の亡霊が現れ、その後幼馴染みアイラが訪れる。
第5場を除いた他の場面は、浅野×俳優Aの2人だけでその場が進行・成立する。浅野エリック大活躍、というか、エリック役に役者を得なければこの芝居は間違いなく破綻するだろう。そういう芝居。
先日観た『トーチソングトリロジー』の篠井英介の存在感もたいしたものだと思った。だが、この浅野和之の場合は全く違った存在感である。篠井アーノルドが圧倒的な存在感で場を制圧していたのに対して、浅野エリックは全ての場面で受け手(助演)になりつつも場の緊張を保っている。決して相手役に対して道を譲って脇に甘んじているわけではない。巧みに相手役を主役に持ち上げた上で自分が屋台骨となって支えるのだから、とんでもない技量だ。
「ユダヤ的であること」とか「ユダヤを捨てること」などは、典型的日本人である私にはいまひとつピンと来なかったし、何がそこまで固執させるのかも分かりにくかった。だが、ユダヤやブルックリンという街を「古い因習に囚われた田舎」のように捉え直せば、なんとはなしに見えてくるモノがあった。
そこから抜け出したい、脱出したいと願い、振り返ることを拒んで捨ててきたハズの過去。それがいつまで経っても己にまとわりつき、時には「忘れるなよ」と微笑みかける。そこには自分が嫌悪するモノばかりがあったような気がし、それらを振り切るためにがむしゃらに突き進みすらした。自分が欲したモノ(例えば名声、成功)を勝ち得てみれば、周囲はやたらとチヤホヤするばかりだったり、「貴方のバックボーンはやっぱりあの街なんですよね」と言ってきたり。そして何故か、心が戻ってゆくのは捨ててきた故郷だったり。
ラスト直前までは、幼馴染みアイラの存在がどうにも暑苦しくうざったく感じていた。それにもかかわらず、エリックが一人取り残されるラストになって、石田アイラの示していた純粋素直すぎるありようが温かく見えてきて、私は浅野エリックと共に涙した。