この秋の東京は『シラノ・ド・ベルジュラック』強化運動実施中なのでしょうか。
10月には緒方拳ひとり舞台『白野』@シアターコクーン、11月には鈴木忠志演出『シラノ・ド・ベルジュラック』@新国立劇場と、この文学座『シラノ…』である。
見比べる楽しみはあるが、さりとて一時期に3回も観たいほどに『シラノ…』の話が好きというわけでもなし。というわけで、私は緒方拳ひとり舞台vs江守徹主演、というセレクト。私の結論としては、緒方拳『白野』の圧勝。
兎に角よろしくないのが、ロクサーヌ(高橋礼恵)の人物造形。
ひたすら軽薄で我が儘な女にしか見えない。よって、何故シラノ(江守徹)ともあろう人があのようなジコチュー女に惚れ抜いているのか、痘痕もエクボに見えるのかさっぱり分からない。
ロクサーヌがクリスチャン(浅野雅博)に一目惚れをするのは理解しよう。だが、パン屋でシラノにバタバタとお願いごとをする様子の、あの自己中心っぷりには、恐れ入るしかない。いくら惚れた男(クリスチャン)のために、その男の協力者となってくれるように旧友(この場合はシラノ)に頼むとはいえ、やり方が無神経すぎる。喋りたいだけ自分が喋って、あとは「貴方(シラノ)の武勇伝もいつか聞かせてね」と去り際に言うんだから、いかに「武勇伝はおまけ」と思っているかがあきらか。
クリスと言葉を交わすようになってからも、ようするにクリスチャンの(実はシラノの)美麗な言葉に酔っているだけで、飾られた言葉の上辺しか見えていない。愛を語る男に対しては「もっと詩的な言葉で飾って」と要求するわりには、自分自身は教養ある言葉を返しているようにはとてもじゃないが見えない。
まるで「より多くの言葉でちやほやしてくれる殿方になびくわ」と言っているかのごとく。そんな浅はかな女だから、愛の言葉がクリスチャン本人の言葉なのか、夜の闇に紛れたシラノの言葉なのかを聞き分けることすらロクサーヌには出来ていない。
見てくれよりも声重視の私にとっては、このロクサーヌの振る舞いはア・リ・エ・ナ・イ。
クリスことを思って戦場へやってくるのは愛故の純粋な行動ではあろう。が、軍隊のメンバーの憧れのマドンナ的地位を確立しているのを良いことに、その男達をもてあそんでいるようにしか見えない。
「私は帰りませんわ!」などと高飛車に言い放つのだから、迷惑きわまりない。正直、あのシーンでは「けっ」と口に出して言ってしまいそうだった。
ロクサーヌが良い女に見えないのだから、そんな女に惚れるクリスチャンも三枚目に落ちている。
「愛している!とっても!」と一直線に愚直な言葉を吐くのは誠実には見える。が、しかしそんな彼とてロクサーヌの美貌に欲情しているだけで、ロクサーヌの愛(それが何に対する愛なのかは甚だ疑わしいのだが)を勝ち取りさえすれば手段は選ばないわけだ。
だいたい、手紙交換やバルコニー越しの会話なら美辞麗句を全てシラノに代筆(代弁)して貰うことも可能だろうが、いざロクサーヌをものにした後、二人向き合っての睦ごとの時には何と言うつもりなのだろう?軽佻浮薄とはこのことだ。
それでは何故、剣もペンも人並み優れたシラノ・ド・ベルジュラックが、たかだかあのようバカ二人に道を譲らなければならないのか、皆目理解できない。(そもそもシラノがロクサーヌに惚れている、そしてその恋心を生涯違えないことすら信じられないのだが、それでは物語にならないので、まあ常套句ならが「恋は盲目」ということで無理矢理納得するとしよう。)
でもさー、たかだか鼻が大きいってだけのことでしょ?
ご面相は悪いが人並み優れて才能がある男が、この世の花と歌われる美女に惚れて、でも当然のように美女には相思相愛の美男子がいて…ってパターンは『オペラ座の怪人(ファントム)』もそう。確かに醜悪な面相故に人並みに扱ってもらえないという設定は、物語をドラマチックにする要素ではある。
でもね、やっぱり基本的なところとして、何故それほどまでに劣等感を抱き、何故にその劣等感を克服できないのかがわからない。物語が成立した時代との価値観の違いなのか。それとも、シラノやファントム自身が、美女にふられるかもしれない予防線として「鼻が大きいから」等という自分に対する言い訳を残しておきたがっているのか? わからん。
ラストのクリスチャンの遺書をシラノが読む場面。ここで「実は、これらの恋文を書いたのはシラノだった」ということがロクサーヌに分かるのだが、そしてそれが第一のクライマックスなのだが、ぜーんぜん、素敵じゃない。ちっとも感動できない。
いったいロクサーヌは今まで何を見てきて、何を見たつもりになっていたのかと、叱責の言葉しか思い浮かばない。ロクサーヌがどんなに嘆こうとも、それは彼女の愚かさが露見しただけのこととしか観客には映らない。
いかーん。それじゃあ違うだろ。
そんなつまらないラストのためにこの芝居を上演しているんじゃあないでしょ。
ロクサーヌがてんで魅力がない為に、物語の骨格であろう「シラノの純情」など影も形も見えなくなっている。ラストの「曇りなき月に届くもの、それが私の心意気」の台詞もちっとも映えない。なんだよ、せっかく江守節が炸裂しているのにさ!
あとですね、敬語の使い方が気になったのですが…。
私がはっきり気づいたのは修道院の場面。尼さんが「どなたがそのようなことを申したのでしょうか?」と言うのだが、これ、変だよね…。
「どなた」というのは尊敬語で、「申す」というのは謙譲語。
そのようなことを言った人(仮にAさんとする)に対して「どなた」と尊敬語を使うなら、続く文面は 「おっしゃったのでしょうか?」と、やはり敬語を使う。逆に、Aさんに対して「申した」と謙譲語を使うなら、その文面では「誰がそのようなことを」と謙譲語になるはず。
「どなたがそのようなことを申したのでしょうか?」では、Aさんに対して「どなた」と敬語を使いつつ、「申した」と謙譲語を使っていて、変。
いや、仮にね、文学座が使った脚本が高名な翻訳家が訳した古典的名文で、その高名な翻訳家が訳した当時は「どなたがそのようなことを申したのでしょうか?」という表現がOKだったよしようよ。そうだとしても、現在の敬語用法としては×なのだから、上演するに当たっては直すべきでしょ。
この場面だけではなく、他にも何カ所か「申す」がらみで「おや?」と引っかかりを感じた。若手へなちょこ劇団なら敬語のミスなど目をつぶるが、文学座ともあろう劇団が、敬語の用法を間違っているってどういうこと?
それとも私が台詞の文脈を聞き違えていてor私の敬語力が低いだけで、あの敬語は正しかったのか?(是非、そうあって欲しいところだ。)
…なにを熱く語ってるんだ、私。