自称☆芝居道楽委員会

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「あわれ彼女は娼婦」

2006年7月25日(シアターコクーン)

禁断の愛、近親相姦とセンセーショナルな言葉が並ぶ。チラシもそれを煽るかのごとく、フルヌードの三上博史が、相手役の深津絵里に抱きつくというもの。何にも知らないオバチャン達が、「まあ!」と目を輝かせながらチラシを手に取るしまつ。
そんな宣伝のため、キワモノのイメージを持ってしまったが、これはそういう作品ではない。確かに舞台では兄と妹の愛が繰り広げられる。だが、その周囲を取り巻くのはひたすら醜い傲慢と、それに端を発する復讐の輪。これは人間の業の愚かさを描いた、ジョン・フォード版ギリシア悲劇?

しかーし!納得イカン。どうしても、納得できない。物語のあらゆる点においてツッコミたい。せっかく面白い主題が見え隠れしているのに、それをあぶり出しきれていないのは演出(蜷川幸雄)の失敗か?!
納得できない、理解できない、共感できない。

<納得できない1>何故、締めくくりが枢機卿なのか。

私が理解できないコト、納得できない理論の根拠が、西洋文化圏モノで頻出する「キリスト教的考え方」とか「教会(教皇)等の存在」。
特に今回の舞台で「何だよソレ!」と思ったのが枢機卿(妹尾正文)の立ち回り。ローマ軍人グリマルディ(鍛治直人)の殺人罪は、身内(ローマ教皇使節の枢機卿と、ローマ人軍人の関係)という理由でお咎め無しにする。大虐殺の後始末も「関係者の財産等は教会が没収する」わけで、甘い汁を吸いまくり。すげーむかつく。
教会なんて、権力者なんて、しょせんそんなもんよね。ふん。だから、教会=権力者の構図、というのはそれでかまわんのですよ。

でもね、最後の場面を締めくくるのが、あの枢機卿とういのが納得できない、許せない。 なんたって、役者(妹尾正文)がド下手。
ラスト、枢機卿の「この事件を語るとき、人はこう言うだろう『あわれ、彼女は娼婦』と」という台詞で幕が下りるのだが…この台詞のまずさには天を仰ぎましたよ。
これぞまさに、Oh!My GOD! というやつです。こんなに下手な幕切れの台詞を、私はたぶん初めて聞いたと思う。仮に、彼があの台詞のまずさを「告白」して神に許されたとしても、観客は彼を許さないのだ。許さーん。許さないのだ。
何、何? これって世の不条理を表しているの?もしかして? それともキリスト教への不信感を植え付けようとの意図から、あえて下手な役者に演じさせているの?うへーっ。

ついでにいうと、私には「彼女は娼婦」だとは思えない。何をもってして娼婦なんだ?当時の倫理観か?宗教観か?道徳か? いや、仮に当時においてはそうであっても、現代においは娼婦ではない。いっそ日本語訳を変える必要もあるのでは?

<納得できない2>何故、妊娠を阻止できなかったのか。プターナの無能。

分からないと云えば、「出来ちゃった」事件。なんで当事者達が「予想もしなかったことだ!」とばかりに慌てふためくのかがわからない。
そりゃあ、オギノ式と呼ばれる生体リズムを利用した子宝を得る手法や、ゴムによって避妊する方法が一般に知られるのはこの100年くらいのことなのだろう。でもね、することしたらお腹が大きくなる、ってことは太古の昔から分かっていたこと、だよね?
それにもかかわらず、恋人同士がやることやって「つわりがっっ!」とかって真っ青になるというのは、どうなんでしょう。それに妊娠したら月のものが止るんだから「もしかして」という予感は十分にあったはず。何を今さら。
そうは云っても、現代日本だって妊娠中絶する中学生・高校生が大勢いるんだから、劇中の登場人物ばかりを責めることも出来ないんだけどさ。
あー、そっかー、人類がそういう過ちを繰り返す程に、それは「欲」なのだ、ってことだよね。ふふん。

この芝居では、妹アナベラが兄ジョバンニ(三上博史)との子を身ごもる。善意的に解釈して、アナベラは深窓の令嬢らしくそのテのことに関する知識が皆無だったのだとしよう。そして、ジョバンニも単なる神学バカで、やっぱりそのテの仕組み(何をしたらどうなるか)全く知らなかったとしよう。
でもね、アナベラにはプターナ(梅沢昌代)という養育者(乳母?)がついている。こういう人って、お嬢様にそのコトを教える役目を担っているんじゃないの?
プターナはアナベラが希望するのであればその相手が兄であってもヨシとする姿勢を取っていて、それは主人第一の従者の鑑ではあるのかもしれない。けれど、絶対に極秘を守るべき近親相姦の同衾だからこそ、妊娠しないような手だてを養育者としては授けるべきなのでは?
もし、智恵を授けても妊娠が防げなかったのであれば、養育係としては堕胎薬を飲ませることも選択肢に入れるべきだよね。しかもプターナの台詞に「アナベラのお腹が大きくなって」というものがあったが、アナタ!妊婦のお腹がそれと分かるほどふくらんでくるのは5ヶ月過ぎた頃からじゃない? ったくそれまで何をやっていたんだよ。
兄ジョバンニも妹アナベラもアホだったけど、正直言って、プターナは無能。

<納得できない3>何故、花嫁は処女であらねばならないのか。ソレンゾの横暴。

その絡みで言うと、女性に対しては処女であることを要求するのに、男性は「何人の女をモノにしたのか」を誇る、というのがわからん。何で女性は欲を克服することが美徳なのに、男性は欲を解放することが美徳なの?
「そういう道徳観だったのよ」と言われればそれまでで、何も過去の価値観を非難しようというのではない。でも、その芝居における根底を貫くコトが分からないと、舞台を観ていてもずっと引っかかりを感じ続けるのだ。

この芝居においても、貴族ソランゾ(谷原章介)は人妻ヒポリタ(立石涼子)不倫していた過去がある(しかも一方的に振ったらしい)。にもかかわらず、自分の体験は棚に上げておいて新妻・アナベラが処女ではない(どころか身ごもっている)ことを烈火の如く非難する。
なんだかなー。だってさー、ヒポピタにしたってたまたま身ごもらなかっただけで、ソランゾの子を宿した可能性だってあるわけでしょ。ちっっ。我が儘男めっ。自分勝手に熱くなりやがって。

<納得できない4>何故、宗教によって近親相姦が禁じられるのか。

ついでに言うと、何故近親相姦が駄目なのかも分からない。
生物学的に言えば、遺伝子の多様性を損なう近親相姦は、生物の生存能力・生存の可能性・進化を妨げるものであるからイカンのだ。それは、わかる。だが、何で「宗教上の理由」から駄目とされるの? わからん。私、やっぱりアホなんだろうか。
日本の神々なんざぁ近親相姦だらけでっせ。

<いまいちな役者1>アナベラ@深津絵里

それにしても、妹アナベラよ…貴女はアナベラではなく深津絵里です。
あの透明感のある声は、純粋培養乙女とか神々しい巫女の雰囲気を出すには味方となるのだろう。だが、今回は、声ばかりが先走っていて台詞の内容が届かない。どこまで行っても深津絵里。良くも悪くも深津絵里。

<いまいちな役者2>ソランゾ@谷原章介

どこかで見たことがあるような、無いようなと思ったら、『コーカサスの白墨の輪』で、グルシャ・ヴェシャナゼ(松たか子)の相手役だった、かな。あの時は、ちょっと見目麗しいというだけで、単なる案山子のような芝居をしていた。
今回は、とにかく熱い。貴族という設定のせいか妙にかっこつけしぃのうえに、熱っくるしい演技を披露してくれている。

谷原ソランゾの常に音量最大・常に大見得切った芝居と、深津アナベラの声緒姿勢も常にまっすぐ過ぎる芝居がぶつかると、びっくりするほど不協和音が響く。いやはや。

<良かった役者1>ジョバンニ@三上博史

突出しているのは、兄ジョバンニを演じた三上博史。『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』の時も突き抜けた神憑りヘドウィグになっていたが、今回の三上もすっかりジョバンニである。

ジョバンニの取った行動が良いことなのか悪いことなのか、私にはわからない。だが、周囲の腹黒い男達から比べると、よっぽどスマートだ。
確かに、ことの発端は、ジョバンニが妹アナベラに告白したことに始まる。だが、回り出した歯車が止らなくなったからといって、全ての責任をジョバンニに帰すことはできないはず。 他の男達がもくろんだ策謀に比べれば、ジョバンニの恋愛感情もその後の大殺戮も発端が清い(まあ、肉欲もつきまとうわけだけれど)。道徳とか宗教とか倫理とか、そんなこと全てをかなぐり捨てても、打ち明けずにはおれない思いがジョバンニにはあったのだ。恋愛なんてそんなもんでしょ?
そう思わせてしまう力が、三上ジョバンニにはあった。

<良かった役者2>バーゲット@高橋洋

共感を呼ぶのは大馬鹿ボンボン・バーゲット(高橋洋)と従者ポジオ(戸井田稔)。
この作品では3組の主従が登場する。アナベラと養育係プターナ、貴族ソランゾと従者ヴァスケス、そしてアホアホ君バーゲットと従者ポルゾ。この中で主従が互いを認め合い必要としている、あるべき主従愛の姿を見せているのは、アホアホ君バーゲットと従者ポジオだけである。
他の主従と言えば、無能だったり裏切っていたり悪事を勧めていたりと、欲まみれの関係。全く美しくない。 アナベラの妊娠のことに絡めて述べたとおり、プターナは役立たずである。ソランゾの従者ヴァスケスは、主人が希望する策略を手配しているようで実のところは己のイタリア人に対する恨みを晴らしているに過ぎない。

だが。大馬鹿アホアホ君バーゲットと従者ポジオにはそういった関係は無い。
ポジオにとってバーゲットは愛すべき主人であり、バーゲットにとってポジオは誰よりも大切な友人なのである。大馬鹿ぶりを発揮しながら舞台を駆け回り、時には派手に転び、時にはチュチュを着てダンスをし、時にはラブレターの効果に一喜一憂する。その全ての思いを二人は共有しており、それでいて主従たる関係を崩していない。
それがはっきりわかるのが、バーゲットがローマ軍人グリマルディによって間違って殺されてしまう場面。その場に立ち会ったのは恋人フィロティス(月影瞳)と従者ポルゾなのだが、バーゲットは最期の時をポルゾに抱かれ、ポルゾの腕にすがり、ポルゾに話しかけながら過ごし、そして死んで行く。哀れバーゲットは子ども、である。
だからこそ、ポルゾらが枢機卿の館を訪ね時間外の非礼を知りつつ扉を叩く場面、そして枢機卿にすげなく扱われた後、閉じられた扉をポルゾがすがりつくようにして叩く場面では涙が出るのだ。たぶん、バーゲット殺害から枢機卿館の一連の場面は、この舞台でもっとも客席が盛り上がった場面だろう。

バーゲットは明らかに道化役であり、この場面で客席が沸くのは当然だろう。だが、それだけだろうか。たぶん客席にとって唯一分かりやすい存在がバーゲットなのだ。ステレオタイプのアホアホ君だけれども、一番純粋に「フィロティスちゃん、好きっっ!」とウブな恋する青年になっているのはバーゲットだけだ。
腐りきった大人達の中にあって、ベタなアホアホ君ながらも、大馬鹿ボンボンだけれども、だからこそ打算とは無縁に生きている。そこに客席は一片の救いを見いだすのではないか。
高橋洋は『間違いの喜劇』に引続き、道化役を見事に演じている。

採点:★★★☆☆

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