<ひと夜>
ぶっとび夫婦おとよ(芝雀)&松太郎(信次郎)。日蓮宗行者・田口義道(歌昇)。
役者が揃い、上質でピリリと山椒の効いた人情時代劇になっている。物語が転がり出すまでの前段はちょっと気だるいテンポだが、おとよが行者の家にやってくるあたりから小気味よく話が進んで行き、キュッとオチがついて幕。
前述の3人の他にも、浪花節を歌う男(中村吉之助)や大げんかの夫婦者など、どこかで見たことがあるような人物達。「ああ、こういうこと、あるある」「結局、あーゆー天然の人ってさー」と身近に感じる。
それにしても。男性陣が全員ザンギリ頭+素顔に近い化粧だったので、アノ役を演じているのだ誰なのか、かなり後半になるまでさっぽりわからなかった!
<寿式三番叟>
亀治郎は踊れると思っていた。2003年浅草歌舞伎での『奴道成寺』はよく覚えている。
だが、染五郎はどの程度踊れるのか分かっていなかった。幸四郎との『連獅子』(2002年と2005年)等、いくつか染五郎の舞踊は観ていると思うのだが、可もなく不可もなくという印象。
それが、いやー、侮っていて申し訳ないです。本当に。二人とも、ぐいぐい見せる踊りを披露してくれて、私はとってもドキドキしたよ。
欲を言えば、染五郎は(亀治郎との釣り合いを考えて)もう少し腰を落として踊ってほしい。客席に絵が見えるように扇を持ったときの、その扇の傾きの角度にも注意してほしい。
が、こんなことはきっと些末なことだ。
拮抗する技量の役者が二人、若さと実力で踊り継いで行く、そのことが今回の見どころになっているのだから。
<夏祭浪花鑑>
今回福助が演じたお辰という役、私は江戸っ子風のシャキシャキした役だと思っている。男伊達・一寸徳兵衛(信次郎)の女房、頼まれたことはキッチリやらなければ女が立たないと啖呵を切ってみせる、そんな人物だ。「あんたの顔に色気があるから、それで磯之丞さんは預けられない」と釣船三婦(段四郎)に言われ、「なんと!そんなことを言われるとは口惜しい!」と思う、そんな女だ。
その女が何故、「さぶさぁーん」と甘ったるくダレた声を出すのだろう。それじゃあ媚びを売ってるようにしか聞えない。
そして、花道での「あの人が惚れたのはココ(顔)じゃあない、ココ(心意気)でござんす」ときっぱり言ってみせるべき名台詞。何故、あんなにまでもたっぷりと引っ張り、顔もにやけて言うのだろう。
全くもって理解不能。私が三婦なら、こんなどろっとした年増のお辰には、大事な磯之丞を預けられない。そも、こんなだるい声をあげる女に「女が立たない」などと凄まれても、ちゃんちゃらおかしく、お話にならない。
福助はきっと、声の使い分けと表情の崩しかげんで客席を沸かせる方法を見つけてしまったのだ。そして、安易にそちらに走ってしまっているのだ。なんて勿体ないのだろう。
福助には今一度、演じるということを見つめ直してほしい。すぐに笑いたがる、すぐに反応したがる安っぽい客など相手にしないで欲しい。客のレベルに合わせた低い芝居などやってくれるな。客席から自然と拍手が、ため息が漏れてしまう、そういう芝居を是非目指してほしい。なにしろ福助という女形の名前は、歌右衛門に繋がる道なのだから。
吉右衛門演じる団七は、期待通りの出来。
私の見た回では、崩れた髷の元結がうまくはずれず、なかなかざんばら髪にならなかったり、刀の鍔の留め金がすっきり外れず、鍔鳴りに手間取ったりと、殺しの場面での小道具の不具合に苦労していた様子。あれがなければもっと盛り上がったのではと思う。
しかし、あの躓き?があっても尚、殺しの後に井戸水を被る場面や御輿に紛れて逃げる場面で、客席の心をぎゅっと絞らせる技量。見せつけられた、と言うべきか。
泥を使った様式美&凄惨な殺しの場面に盛り上がりを持ってくるのではない。殺してしまった!という己の所行に震えが止らず、刀がなかなか鞘に収まらないという場面での、あの泣き笑い寸前の動揺。そして「悪い人でも舅は親。許して下され」と手を合わせる、その心情に盛り上がりを持ってくる。その吉右衛門の巧さ。
根っからの悪人なのは舅・義兵衛(歌六)。
悪気はないのだろうが、金も力も無く、ただ「惚れた」だの「好いた」だのと言って芸者を連れて逃避行中の磯之丞。
こういう迷惑な奴等のせいで、団七は殺人罪を犯し、三婦は耳に掛けた数珠を切る。忠義である、孝行であるということは、何と過酷なことだろう。