確か、高校か大学の頃に戯曲を読んだような気がするけれど、さて、どんな話だったかな?と、ぼんやりとした記憶を弄びつつ客席に着く。思い出せずに更に記憶が朦朧としてきたところで開演ベル。
弟・トム(木場)が客席にほほえみかけ、ゆっくりライトが絞られる。
物語の基本は、彼の回想というかたちで進行。このため、木場の見た目はあからさまにオジサンだ。そして、20才頃の青年トムもオジサン姿の木場がそのまま演じる。このイイ。
そりゃあ、「木場がどうみてもオジサンなのに、中嶋朋子の方が姉には見えない」とか、「木場がアマンダの息子というよりは、夫にさえ見える」とか、「トム役を青年俳優にやらせない意味がわからない」とか、この配役には不賛成な人も多いだろう。
通常の配役ならば、トム役は青年が演じることになるだろう。そしてその青年俳優は、トムの青年らしい暑苦しさと葛藤とウダウダとモヤモヤと…そういうヤツを前面に押し出してくるのだろう。そして、際どい処で崩壊を免れているガラス細工の家族を、ズキズキと見せてくれるのだろう。そして、それはそれで素敵な舞台になるのだろう。
でもね。私は、そういう「青少年の葛藤」というやつが、基本的に苦手なのだ。すまん。誰に対してなのか分からないが、謝っておく。実に申し訳ないが、その手のウダウダものは、どんなに名作と言われていても、私は駄目なのだよ。例えば『キッチン』や『理由なき反抗』等は「うざったい!」と思ってしまうのだよ。もう、これは、個人の嗜好の問題ですね。わはははは。
それに。「青年役は青年が演じる」なんて規則は、本来どこにもないはずだ。
青年役を若い役者が演じることで出てくるリアリティーとか、あるいは時分の花とか、そいういうものはあるだろう。だが、青年役を老俳優が演じることで醸し出される独特の灰汁とか、虚を実と見せる技量の面白さとか、そういったものは事実あるのだ。
勿論木場は、トムという青少年役を、青少年風にジタバタと演じている。その作られた若さに1ミリの無理もない、と言えばそりゃあさすがに嘘である。でも、そこには間違いなく青年トムがいた。
私は、木場がオジサンだからこそ、あの家族に冷静な視点を持ち込めたと思う。木場の見た目がオジサンだからこそ、過去を回想する存在としてのトムが根底にあるからこそ、逆にあの家族の危うさを一歩引いて見せてくれた。大人になったトムの目線が、演じ手の木場の何処かにあるからこそ、家族を慈しみ姉を思いやるその眼差しを青年トムの中に感じることができた。
私には彼が、若いのに生活に疲れちゃって、ちょっと人生を投げ出しそうになっていて、でも情があるから投げ出せない、どこか木訥とした青年に見えたのだ。だから、それでいい。
白眉はやはり中嶋朋子の姉・ローラ。
舞台上の壁にキラキラと映し出されるガラス細工に包まれながら(この映像はとても美しかった!)、舞台中央のガラスの動物園に見入る様子。自信を持てないまま俯く様子。青年紳士ジムにキスされて恍惚となる様子。全てが間違いなくローラだった。
青年紳士ジム(石母田史朗)は、確かに人を惚れさせるものを持っていた。ハイスクール時代の舞台の様子や、これからの人生を熱く語る様子など、生気にあふれるとはこのことだろう。
母・アマンダ(木内みどり)は、どうしようもなく母だ。台詞を噛むのでさえ、演技のうちなのでは?と思わせるほど、どうしようもなく己の思考に没頭している。こういう女、大嫌い。
それにしても、ラストはあの映像なのだろう。これほどまでに客席に想像力を要求し、ガラス細工の家族像を明瞭に描き出した演出(イリーナ・ブルック)をしておきながら、最後は映像という固定的なリアルを示していることに大いに疑問を抱く。
ローラと母アマンダが抱き合う映像は、録画されたモノを映している為に実際の舞台上の俳優の動きとは微妙に違ってきており、その違いが中途半端で気になる。極め付きはラスト延々映されているローラの顔のアップ。その必要性が全くわからない。
この映像を利用するという一点において、イリーナ・ブルックという演出家のセンスを疑わざるをえない。