自称☆芝居道楽委員会

2006年前半 <<芝居道楽録 <<HOME

2月大歌舞伎・夜の部
「京鹿子娘二人道成寺」「人情噺小判一両」

2006年2月20日(歌舞伎座)

<京鹿子娘二人道成寺>

『京鹿子娘道成寺』を二人の女形が踊る。しかも、二人が入れ替わりで踊る従来の『二人道成寺』とは異なり、二人が同じ場面を同じ振りで踊ったり、鏡に映したように踊ったりする。(たぶん、能『二人静』がこのパターンだと思う。『二人静』は未見だが…。)

二人の白拍子花子は、坂東玉三郎と尾上菊之助。
かたや、透明感のある踊りと独特の艶やかさを持つ希有の女形・坂東玉三郎。かたや、2005年の『NINADAWA十二夜』『児雷也豪傑譚話』で飛躍著しい新進女形 ・尾上菊之助。
菊之助がどこまで玉三郎の『道成寺』について行けるのか。そして玉三郎がどこまで菊之助の魅力を引き出しているのか。二人の白拍子花子という設定が、どう展開するのか。舞台を観る前からうきうきである。

玉三郎と菊之助は、ほとんど身長が同じ。烏帽子をつけて踊る『乱拍子』の場面などは、型を重視した踊りのためか表面的には二人に大きな差が出ず、二人同時に踊る『二人道成寺』の面白さが出てくる。
逆に、『恋の手習い』や『山尽くし』など心理描写が全面に出る場面になると、二人の踊り分けの面白さが出てくる。玉三郎は匂い立つ艶、菊之助は香り立つ時分の花。玉三郎は明らかに白拍子、菊之助は生娘でもいける。玉三郎は着物の裾まで隙がなく、完璧な美しさで女形最高峰の舞踊を見せる。菊之助は裾も視線も指先もどこか隙があるけれど、それを逆に誘いとして女形の卒業論文を踊る。

これはあくまで『京鹿子娘道成寺』の変形版であり、舞踊として『京鹿子娘道成寺』を越えているとは私は思わない。だが、間違いなく、 今だからこその舞踊だろう。ことに、菊之助がこれだけ踊れるというのは、正直言って予想外の嬉しい展開。これで益々、菊之助の今後が楽しみになってきた。

残念だったのは、私の席(花道側の壁際3階席)からは花道が全く見なかったこと(但し、これはチケットを確保する段階で分かっていたので、諦めてはいた)。しかし、それに追い打ちをかけるように、舞台に近い側の隣の観客が、必要以上に身を乗り出し、前の手すりに肘を乗せるようにして観劇していたため、私の視界はその観客の腕やら顔やらに遮られ、舞台下手側3分の1はほとんど見えなかった…。舞台が多少見えないであろうことは仕方がないと諦めていたが、隣の観客がもう少し遠慮して見てくれれば、私の視界も広がったわけで、そのへんのイライラがなければ、もっと良い観劇環境になったと思う。

<人情噺小判一両>

宇野信夫が、初代吉右衛門と六代目菊五郎の個性を生かして書いた作品を、当代の吉右衛門・菊五郎が演じる。世話物・人情物に定評のある菊五郎、時代物と愛嬌のある世話な人物に味のある吉右衛門の顔合わせということで、大いに楽しみ。

さすが、菊五郎。登場したとたんに、紛れもなく江戸の住人、笊屋の安七。ちゃきちゃきとした話っぷり、間の取り具合、さらっと流すところ、軽く受け止めるところ、全てが世話狂言になっている。

菊五郎とからむ凧売の吉六(権十郎)も、世話が手慣れている。菊五郎とのコンビも絶妙で、怒鳴ったり、ひっこんだり、暴れたり、下手に出たりと、こちらも自在。
実は、私の中では「権十郎」と云えば先代(三代目)の河原崎権十郎(1999年没)の印象が強い。なにしろ私が歌舞伎座に毎月通っていた時期の権十郎が先代だからね。しかもこの先代、生涯の代役回数が六十回を越え、ギネス認定された、というとんでもない記録保持者なのだ。ひゃー。
で、今の権十郎は十七代目・市村羽左衛門(2001年没)の三男。2003年に河原崎権十郎を襲名している。嗚呼、坂東正之助はさして強い印象もない役者だったが、イイ役者になってきたねぇ。菊五郎劇団の役者は、育ちがまっすぐで気持ちいいね。

お楽しみの吉右衛門 は、浅尾申三郎という侍を実に明確に演じている。
笊屋安七に酒を奢り、「いいものを見せてもらった」と喜んでいる場面では、『松浦の太鼓』の殿様を彷彿とさせる笑顔で愛嬌を振りまく。身分のある侍が、一町人を座敷に上げて酒を振る舞っても、ちっとも品が落ちないし、施しているという高圧的・独善的な雰囲気もない。とにかく、嬉しい楽しい!が全面に出ていて、かつ侍の矜持を押さえている。
浪人・孫市宅に行き、孫市の自害した姿を見てからも、まっすぐな姿勢が保たれている。同じ侍だからこそ分かる孫市の胸中、そしてそれを察してやれず、ただ笊屋安七の行動を喜んでいた己の至らなさ。そういったももを踏まえて尚、残された小市に「武士たるもの」の姿を示し、手順良くしかも情篤く振る舞うありかた。大きいなぁ。

話の展開を見ていて、落語『一文笛』を思い出す。『一文笛』にも貧乏士族(もと侍)とその息子が登場する。こちらの息子は笛を盗みはしないのだが、掏摸の秀がこっそり笛を盗んでその子に与えたことがキッカケで、結局子供が泥棒したと疑われ、とうとう井戸に身を投げてしまうのだ。
『小判一両』では、笊屋の安七に一両をめぐんでもらったふがいなさに貧乏浪人・子守孫市は腹を切る。『一文笛』では、泥棒の濡れ衣と、あの時、掏摸のおじさんから一文笛を貰わなければ疑われなかったのだ、という後悔から、貧乏士族の子供は自殺を図る。
笊屋の安七にしても、掏摸の秀にしても、善意の行動だった。それでも、施された側の誇りを傷つけることがあるのだ。その、ちょっとした怖さと、危うさ。「恥」の為に死ぬというのは、こういうことなのだろうと思わせる、そんな話。

この暗い結末で歌舞伎座を後にするのは、どうにも気持ちが重たいけれど、この重たさも俳優の芝居が良かったからこその味わい。満足、満足。

採点:★★★☆☆

2006年前半 <<芝居道楽録 <<HOME