舞台全体は廃墟のようなつくり。中央に崩れた鉄骨のようなものがそびえ、上手には場面タイトル用の席、下手にはがれきの山があってその中にバンドマンが控えている。事前情報で「舞台の広がりを上手く利用した演出&美術」と聞いていたのでわくわくする。
が、参ったなぁ。私の席はかなり前方の下手壁際。座ってみて気付いたのだが、舞台後方(舞台中央の鉄骨より後ろ)が完全に見切れる。その代わりというか、上手の舞台袖がちらりと見えたりする。(そんなもん見えても何の得も無いが。)
舞台奥が見切れてしまっていることを痛切に感じたのは、母・肝っ玉(大竹しのぶ)の最初の登場場面と、ラスト。最初の場面で言えば、肝っ玉の歌声は聞こえれど姿は見えず。
ラストでいえば…見えていないので何が見えなかったのか説明のしようもないが、例えば後方のスクリーンは半分しか見えなかった。どうやら年月日を表したデジタル表示が、猛烈な勢いで時を刻んでいたらしい。が、私には下3桁、つまり、月の1桁と日にち2桁しか見えておらず、当初はなんの数字が回転しているのか皆目わからなかった。舞台奥に荒涼として広がる黒い十字架も、終演後舞台前を横切って始めてその存在を知った。なんてこった!
これから芝居のチケットを買うときは、なるべく座席を確認してから買うことにしよう…。
まぁ、そんなふうだったので、演出(栗山民也)の意図するところの半分くらいしか私には見えなかったわけだ。でも、まぁ、野田秀樹演出のオペラ『マクベス』では遠目にしか見られなかったワダエミの衣装を、今回は間近で観られたので(実際に大竹しのぶは私の席の比較的近くまで来てくれたし)、それはそれで良かったかな、と。
冒頭、新教軍の軍曹(中嶋しゅう)と傭兵係(たかお鷹)の会話の中の「戦争の中にしか秩序は無い」「長年戦争をやってない町には、人口の記録も、農作物の記録も無い」の台詞にドキドキする。何という説得力。平和のぬるま湯に浸かっていたい私としては、この台詞に反論したいはずなのに、反論できない。そして、いつの間にか、戦争していることが当たり前な「三十年戦争」時代に心が飛んでいた。
最近連続して冒頭の役者でコケた芝居を観ている私にとって、この事実は、ようやく配役の妙を心得た人に出会った気分。
図太く生き抜くけれど、何度子供を失っても学習しない女・肝っ玉。誰かに利用されながらも、別の誰かを利用し、したたかに生き抜く料理人(福井貴一)。従軍牧師(山崎一)は胡散臭さを嫌みにならない程度の愛嬌で示し、娼婦(秋山菜津子)は人情と打算を使い分けて素手で未来をもぎ取る。長男アイリフ(粟野史治)、次男シュワイツェルカス(永山たかし)、長女カトリン(中山美貴)はそれぞれに一直線だ。
どの役者もやるべきコトをきちんとやっている。当たり前のことが当たり前に出来ていると、当たり前だけれど美しい。
歌。歌もね、良かったんだけど…。
私の席はバンドボックスに近すぎたんですよ。なので、バンドの音楽がまず大音量で耳に入ってくるのです。そうすると、どうしても、歌声は聞こえなくなりがち。確かに役者はマイクをしていて、スピーカーから歌声が流れてくるんだけれど、上手側を向いて歌っている役者の声が、下手側のスピーカーから聞こえてくる違和感。(上手側にもスピーカーはあるが、その音は私の耳には届かない。)
うーーーん。
これから芝居のチケットを買うときは、なるべく座席を確認できる手段で買うことにしよう…。