自称☆芝居道楽委員会

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コーカサスの白墨の輪

2005年2月19日(世田谷パブリックシアター)

劇場を屋外円形劇場風に作り替え、出番の終わった役者も舞台脇で待機しているのが見える。これは面白い手法。そしてその円形劇場のスタイルを利用した客いじりは上手くできている。
いつもは後ろ向きなくらい大人しくて、やたらと反応の薄い日本人観客が、喜々として舞台に入り込んでいるのだ。私の観劇日が千秋楽前日であったこともあり、客いじりの演出(誘導)が既にネットの演劇系サイトで公開されていて、知っていて客いじりされた人も多いだろう。そのような事情を推測・考慮しても尚、これだけ自然な流れで観客が芝居の世界に入り込めるというのは、たいしたもんだと思う。

なりゆきで領主の赤ん坊を育てることになるグルシャ・ヴェシャナゼ(松たか子)の真っ直ぐな気性を真っ直ぐに表現する伸びやかな声。決して家柄というはったりでは芝居をしていない。
置いていかれた赤ん坊に気づき、どうしよう?と悩む場面のもどかしさ。赤ん坊にあげるミルクがなくて「吸って!出ないけど私の胸を吸って!」と、むりやり胸に赤ん坊を押しつける場面の迫力。子守歌を歌うときの笑顔。音程のとりにくそうな子守歌も歌いこなし、とぼけた台詞も怒りの台詞もきちっと伝える確かさ。良い女優になったね。

知事夫人から赤ん坊の声まで、声を使い分け、各役を演じ分けて芸達者ぶりを見せた毬谷友子。知事夫人の天然ぶりっこ(死語だ…)と嫌みっぷりを、いともあっけらかんと、しかし品良く演じてみせる。そうかと思うと赤ん坊の「あぶあぶ…ぶぶぶ…あ〜」といったつぶやき?効果音を可愛らしく聴かせる。面白いよ!毬谷友子。
芝居を選ぶときは、毬谷が出演しているかどうかを一つの基準・お目当てにしようと思う。

褒めるのは、ココまでだ。

あのね、どんなに上手い役者が1人いても、その他の役者がいけてなかったり、致命的に大根な役者が1人いたり、あるいは演出がヘボだったら、芝居としては評価が下がるわけです。座長公演で「某様が登場していればそれでいい」という趣向ならいざ知らず、(いや、そうであっても)、芝居は1人の役者でどうこうできるモノじゃあない。
どんなに幕間の客いじりがよくても、本編の芝居が薄かったら、もぅどうしようもない。いくらカーテンコール前の場面で客席巻き込んでダンスを踊って盛り上げても、踊った観客が嬉しくても、ダンスの輪には加われなかったけれどもウキウキしちゃった観客がいても、帰りの電車で「休憩時間のワインとチーズ良かったよね」「裁判の場面に立ち会っちゃったよね」と喜んでいる観客がいても、ハッと我に返って、で、本編はどうなのよ、と。

串田和美を筆頭とする男性俳優陣の拙いこと。
一人で異様にテンションの高い串田と、存在感が希薄なその他大ぜい。
とにかくマズイよ裁判官アズダック(串田和美)。どういう人物なのかがさっぱり見えてこないし、芝居が間延びしているし、演技ではなくて素で笑っているみたいだし。役者として楽しんでいるという姿勢が見えるのはいいんだけど、あんただけ(役者だけ)勝手に楽しむなよ、と。
串田が演出だけに徹することを、切実に希望します。

個人的趣味で言わせてもらえば、進行役・歌手の(あさひ7オユキ)の声が嫌い。首を締められた鶏のような、妙に鼻に掛かったオカマ風しゃべりのような。しかも、白髪のオジサンがおかっぱ頭というのも趣味じゃないんだな。
唯一良かったのは、持ち歩いていたパソコンが林檎社の「i本」だということだね。(あの白い本体、そしてカバー部分に林檎印が浮き上がって見えたので、たぶん林檎機で間違いないと思う。)その点は良い趣味している。

外国人俳優の起用は、いったいどういう効果を狙ったのだろう。
確かに日本人俳優群の中にあって、骨格の立派なアフリカ系俳優の存在は威圧的な何かを醸し出すし、やたらと肉感のある欧州系女優は意味不明な視覚効果がある。だが、それが一体何なのですかね。
正直言って、台詞劇で日本語が聞き取りづらいのは致命的欠陥。台詞を聞き取ることのみに全神経を集中させなければいけないなどというのは、観客として馬鹿馬鹿しいこと極まりない。そりゃあ、台詞の二言三言聞き取れない部分があっても、台詞全体から類推し、演技から判断して、舞台での展開は理解できる。しかし、台詞の二言三言しか聞き取れないとなると、これは拷問だね。

採点:★★☆☆☆

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