自称☆芝居道楽委員会

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ヤック トゥア デーン
「赤鬼」タイ・バージョン

2004年9月16日(シアターコクーン)

野田ではこれまで野田地図『キル』(1997年/近鉄劇場)と『半神』(1999年/シアターコクーン)、そして野田版『研辰の討たれ』(2001年/歌舞伎座)を観ている。
『キル』と『半神』を観た時は、正直言って野田ワールドについて行けず、かなり鬱憤が貯まってしまった。早口の台詞が聞き取れなくてイライラするのだ。言葉遊びは面白いけれど、それにウケている間に次の台詞が終わっていて、その台詞を聞き損ねた挙げ句物語のテンポ(流れ)から取り残される…。超早口軟体動物な野田の動きは、目が疲れる。
で、私には野田は合わないんだろうと思い、その後は野田を避けていた。『研辰』は勘九郎や福助が遊んでしまう公演だったので、ついつい観に行って、野田だなぁ〜と思いつつも、それなりに満足した。

今回で4作目の野田である。これは、よかった。
タイ語での上演と出演者が14人いるということ(ロンドン・バージョンは8人、日本バージョンは出演者が4人)が正解だった、と言っても過言ではない。まず、歌うようなタイ語が場を作っている。言語としてのタイ語が単語一つたりとも認識できないので、かえって台詞が音として美しく響くのだ。無料貸出(保証料は払う)のイヤホンガイドで日本語の台詞(の抜粋?)が聞けるからそれで物語はわかる。

俳優達の動きも美しい。棚から物を取る、布を広げるというパントマイムでさえ、舞踏のように見える。群衆が体を前後させることによって作られる波のうねり、その体の傾き、足の運び、指先の流れ、全てが美しい。

ここが、海に囲まれた孤島で、誰もが「見晴らす向こうが欲しいために山に登る」ような、でも「海の向こうなど詩人の夢」だと思っていて(自分たちの村以外の世界を認めたくなくて)、異邦人=鬼として忌避するような、そんな村であることが見えてくる。
その中で、あの女(ドゥァンジャイ・ヒランスリ)の視線のなんと鋭いことか。そして赤鬼=ヒデキ(野田秀樹)への眼差しのなんと慈愛と困惑に満ちていることか。あの女の兄である、ちょっと頭の弱いとんび(ナット・ヌアンペーン)が、独特の愛嬌で狂言回しを勤め、嘘つきの水銀(みずかね/プラディット・プラサートーン)はなかなかの洒落モノだ。

みずかね「あれは赤鬼だ、と言え。そうすればお前はこの村に受け入れられる」
あの女「いいえ。(ヒデキは)人だわ」
そして、あの女も鬼=“村から追い出すべき者”となる。ヒデキを人だと断言したときのあの女の真っ直ぐな瞳の強さ。それに対して、直前の台詞を言ってしまった自分の小ささ?に顔を歪める水銀。

「赤鬼だから人を食べるんじゃない。人を食べた者が赤鬼になるんだ」
「赤鬼(ヒデキ)の言葉を覚えているわ。『食え、そして生きろ』」
「鬼が人を食べるのではない。人が鬼を食べるのね」

「海の向こうには妹の絶望が沈んでいる」
兄のモノローグはそう締めくくった。そして、沈み行く絶望は夕日のごとく劇場を包み、客席を涙の海に誘い込んだ。

シェイクスピアの国の論理立てられた芝居(ロンドン・バージョン)で観たら、きっと台詞まわしにはうっとりしても、野田風の動きに違和感を覚えただろう。日本バージョンだったら、『キル』や『半神』の二の舞で、台詞が聞き取れずに苛立っただろう。私にぴったりなタイ・バージョンだったのだ。
少なくともこの一週間は、私はフカヒレを食べてはいけない気がする。それがどんなフカヒレであっても!

採点:★★★★★

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