客席には英語圏の人々が大勢いらしていました。客席の5%は英語を話す方々だったのではないかな?と、思うくらい。つらつら考えてみれば、外国の舞台はずいぶん来日公演を行っているとはいえ、それは台詞の無いバレエであったり、クラシック音楽であったり、英語が使われてもストレートプレイではなくミュージカルであったりするわけで、日本で英語の台詞劇を観る機会というのは本当に稀。となると、東京グローブ座での本場RSCの来日公演(例えば2001年『テンペスト』)は、彼ら英語圏の人々にとって逃すわけにはゆかないイベントなのかもしれません。
さて、『ヴェニスの商人』という作品を私は「子供のためのシェイクスピア物語」のような本で読んだ程度の知識しかありませんでした。ですから、ちょっと『走れメロス』していて、裁判のシーンでの大どんでん返しが面白いんだ、という認識だったわけです。つまり、何としてでもアントーニオの心臓近くの肉1ポンドを取ろうとするシャイロックだが、血の一滴も流すことなく肉を取ることが出来ないため敗退する。善(アントーニオ)VS悪(シャイロック)の、単純な構図だ、と。
しかし、舞台を観ていて、これは私の認識がかなり甘かった、というか、非常に根深い問題を内包した芝居なのだ、ということを知った。
まず、私が感じたのは、これは全くハッピーエンドではない、ということだ。
確かに、キリスト教徒の面々にとってみれば、アントーニオは肉を取られることを逃れ、船も無事だった。遊び人(?)のバサーニオは裕福で美人のポーシャとめでたくくっつき、グラシアーノとネリッサのカップルもまるく収まる。シャイロックの娘ジェシカはロレンゾーとの駆け落ちに成功した上に、父の財産の半分が譲渡される。めでたし、めでたし、である。
だが、ユダヤ人(ユダヤ教徒)であるというだけの理由で嫌悪されつばを吐きつけられていたシャイロックは??彼には何が残されたというのだ。娘は彼の宝石を持ち出してキリスト教徒と駆け落ち、仇の代表アントーニオに一矢報いることも叶わず、あげくに「キリスト教に改宗することを条件に、慈悲を持って財産没収を免れる」だと?!何故、改宗なのだ?ユダヤ教徒である、ということが何の罪なのだ?!キリスト教徒に対しては慈悲を施すが、ユダヤ教徒に施す慈悲は無い、というのか?それが慈悲なのか?それは偽善ではないのか?
宗教対立!!このテーマはどうにも私には感覚的に理解できない。宗教と言われても、正月には氏子として近所の神社にお参りして、葬式やお盆にはお寺さんのお世話になって、クリスマスはアベックの日と勘違いしているような一般的日本人(笑)なのだ、私は。
歴史的事実として、宗教が異なるという理由で差別・怨嗟・対立・戦争という穏やかではない事態が生じていることは知識としては知っている。現在も昨年のN.Y.の世界貿易センタービルへのテロなど、宗教が絡んだ国際問題は生じている。それにしても、何故、原因が宗教なのだ?どの宗教も究極のところ「愛」を唱えているのではないのか?と、このテの話題に疎い私は頭を抱えるしかない。
この芝居を、今、上演するということに、大きな意味があるのだろう。
シャイロックが裁判の場で天秤をセットする時の緊張感、ユダヤ教徒のキッパ帽子を仇敵アントーニオに渡す場面の言いようのない重圧と無念。民族の積年の恨みと一言で片づけるには、あまりにも重く厳しい現実が、今、ココにもあることを見せつけられた。そんな舞台だった。
これは、どうにも原典に帰らなければなるまい。勿論、日本語訳だが。