■ 『満州』の蟻 〜その2:束の間の平和、そして再び中国の土へ 


 戦争は、時には平和な時代に応用できる科学技術を生み出すことはあるが、人間の生活能力に関してもそのような事が起きる可能性があるらしい。日本に帰り商売も成功していたY之助だが、第一次世界大戦への日本参戦とともに、再び中国に戻り、二度と日本の土を踏むことはなかった。
 なお、原典ではその性格上、「富家に生まれたにも係わらず放浪を好み労働を厭わず…(中略)…大志を国に捧げることはまことに隠れたる志士」と持ち上げて締められているのだが、ここででは略。 


 明治40年、30歳をまわったY之助は、軍の任務を辞して、設立間もない南満州鉄道株式会社(満鉄) に入社する。満鉄では鉄道の車掌・運転手養成の業務を行っていたが、日露戦争中に彼の手足となって働いた山東省の中国人をスカウトし、その手際を賞賛されたようだ。

 明治43年、Y之助は日本に戻り、大阪市天王寺で中国料理屋を開く。当時、そのような料理は極めて珍しく、店は好評であったらしい。彼の奇策はこのような状況でも発揮されたようだ。

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 大正3年、青島の役 (日本がドイツの拠点であった青島を奪取)が始まる。Y之助は英語・中国語に堪能であり、未だ弁髪もたくわえていたため、軍務に復帰して、参謀本部偵察将校のもとで、偵察、誘導の任務にあたる事となる。

 戦後も山東省に留まり、芝罘と維縣(維坊?)において電灯会社を設立していたが、大正4年(※)8月18日、とある事業の視察中に、山東省丈嶺(現維坊市の海岸沿い)の田舎、朱家荘という土地で、匪賊 (原文の用語使い)の凶手に倒れた(享年44歳)。

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー (以上)

※Y之助の没年は戸籍上は大正4年となっているのだが、日露戦争の終わったのは大正7年。また、別資料で青島守備軍参謀長がY之助の死を日本国に知らせる文書があるが、その日付はなぜか大正9年付になっている。情報の遅延という可能性もなくはないが、戸籍の没年が間違っている可能性も有り。 

Posted: 木 - 6月 1, 2006 at 09:21 午後          


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