■ 『満州』の蟻 〜その1:若き放浪者、「情報屋」となる 


 曾祖父Y之助は、相当裕福な家に生まれたようだ。だがその一方で現状に満足できず放浪を繰り返す不良ボン…なのかはともかくとして…、放浪の繰り返しは、彼に妙に達者な語学力と処世術という特殊技能を身につけさせてしまったらしい。彷徨いつつも国士を自認していた放浪青年が、日露戦争という「時代」に飛び込んでしまう。 


 明治9年、Y之助は石川県七尾町にて生まれる。東京の神田私立中学校 に遊学した後にサンフランシスコの商業学校に留学するも、間もなく退学し、アメリカ各地を放浪する。21歳の時に一度日本に戻るも、次はロシア領ウラジオストク (浦塩斯徳)に流れ、日本人が経営する商店で輸入業に係わる。

 ただし、ここにも定着せずハルビン(哈爾濱) 、ニングダ (寧古塔、現在の黒龍江省寧安市)など、北満地方から満州各地を数年に渡り、放浪する。当時の満州はロシアが勢力を伸ばしており日本人はほとんど居ない時代であった。

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 明治36年、数年の放浪を続けていたY之助は、旅順、大連を経て、山東半島に抜け芝罘(チーフー、現在の煙台 市)で、とある領事館の書記に世話になる。折しも日本とロシアの関係が切迫している時期であり、芝罘領事は旅順に赴き、居留民の引き上げ、日本国へ向けた警戒連絡などにあたっていた。

 今こそ国の恩に報いる時と決心したY之助は、同地の少佐のもとに属して敵情蒐集の任務につく事になる。明治37年、日露戦争がはじまると、彼はウラジオストク、旅順、大連、安東(現在の丹東 )方面から帰来する中国人旅客に対して大規模な客引きを行い、飲食や阿片などを饗しながら密偵を使い、敵情を蒐集した。

 本物の弁髪 をたくわえており、現地に同化して潜り込みながら、情報蒐集以外にも、現地の案内など様々な活躍をあげたようだ。旅順陥落にかかわる情報についてもかかわった所があるようだ。

 日露戦争の終了後もY之助は芝罘に留まる。属していた少佐が都督府付きとなり長春(満州国時代の新京 )に異動となると、これに従い、やはり旅客を通してロシア軍の撤退状況に関する情報蒐集を行っていた。

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー (続く) 

Posted: 水 - 5月 31, 2006 at 09:18 午後          


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