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平家伝説殺人事件編 目次
稲田佐和

嗚呼・・藤ノ川

貯木場

地域色

東京という街

東京という街-2

南青山

平家の末裔?

浅見と内田

西ヶ原・考

まとめ


軽装版発売にあたり、作画当初時間がとれず仕上げ作業がほとんどできなかった本作と第三巻「軽井沢殺人事件」は、一部作画の見直しとトーンワークを大幅に追加しています。ですから、製作期中の「時間がない」など"ぐちってる"部分の幾分かは解消する事ができました。


2000/3/7 稲田佐和
 
「浅見光彦シリーズ」にとって「稲田佐和」は、特別なキャラクターだと思います。長大なシリーズになった現在では「平家伝説殺人事件」の話の中での約束事は、有名無実となってしまたことは内田先生もアサミストの皆さんも認めていらっしゃる事と理解しています・・と言うのは光彦と佐和、ふたりの関係のことです。

 本作で登場して以後その存在が不明になったキャラクターとして、光彦の二人目の妹(佐和子)がいますが、それは後になって海外に留学中として再度登場しました。しかし「佐和」は本作のヒロインでありながら、シリーズ途中から"存在してはいけない"キャラクターになってしまったと思えます。本作のラストシーンの佐和の存在感を考えると、少なくとも「高千穂伝説殺人事件」のヒロイン或いは野沢光子のように再登場すると事が簡単に済まなくなりそうです。内田先生のことですから「あっ!!」と言うようなシーンで再登場させる事になるかもしれません。
 一読者である私としては、
佐和が再登場する時は「光彦が結婚する時」と捕らえているので、内田先生が相当な落ち目にでもならない限り、そんな展開の新作が書かれることは無いと結論していますが・・・
 私にとってはそれだけ重要なキャラクターが登場する「平家伝説殺人事件」は、ネーム(漫画用シナリオ)作製段階でRPG状態この話の世界の住人に成りきって、ストーリー構成を造り出したつもりです。
 一
sawa.jpg般の読者の中には、ただ小説をそのまま漫画にしたと考えている方もいると思いますが、ネームの作業というものは一度原作をバラバラにして漫画で表現すべきパーツのみを拾い集め、足らなくなったパーツは作り直すし再度組立直す作業です。同一の話が映画と舞台劇では微妙に違っている様に、表現の手段が変わる事によって別の作品になるわけです。
 特別に意識して作り出したシーンではなかったのですが、ネーム作りの段階で既に70本に届こうとするこのシリーズを読んでいた私にとって
「佐和の存在許可」と云うルールが出来上がっていて、それが「光彦と佐和は結ばれない」と云うものです。分かりにくい表現かもしれませんが、結ばれない存在でなければ佐和がキャラクターとして成立し得ない。そのルールに従い出来上がったシーンがコミック版の236ページ、デッキ上から手を振る佐和のカットです(右のイラスト>>>)
 これは別れの悲しさ寂しさのためのカットではなく、2度と接点がない別離を表し
「いいえ また逢えます」と云うセリフは佐和の願望に違いないのです。帰郷した後の佐和の人生は稲田家の相続と繁栄にあり、その傍らに寄り添う男性は光彦ではあり得ない事がコミック版の前提となりました。そう考えると「平家伝説殺人事件」は稀に見る悲恋ドラマなのかもしれません。
 そんなヒロインである佐和が「溌溂としていながら、はかなげで、且つ神秘的」なキャラクターとなるよう頑張ってみたのですが、これが難しい!! 素朴さと云う部分が欠けていて
「藤ノ川」の住人と云う感じがあまりしないキャラクターに出来上がってしまいました。
 漫画に限らず創出された作品は、完成した時点から作者の中では風化が始まり、時間と共に100点満点から一点づつ減点していくものです。しかし「あばたもえくぼ」で、点数的に評価が下がっても愛着が残る作品というものはあるわけです。
 絵的には「もっとしっかり描きたかった」と思っても、キャラクター作りや作画当時どれだけいれ込めたか? の度合いで計ると「平家伝説殺人事件」は私にとって
記憶に残る作品となりました。それも「稲田佐和」と云うキャラクターのおかげと思っています。


2000/3/12 嗚呼・・藤ノ川
 「後鳥羽伝説・・」と「平家伝説・・」の取材は同じ日程の上で行ないました。一泊二日で三次の取材を終え
ニ泊目を広島で迎えたのですが、これが予定外。本来ならば広島は通過点だったのです。半日日程が押してしまった為、ただでさえ予定していなかった藤ノ川へは結局行けず、当地での描写は全て私の頭の中の想像の産物です。
 もう時効だと思うのでネタばらしですが、藤ノ川はあまりに鄙の地のため書店・図書館めぐりをしても、写真のたぐいがいっさい入手できなかったのです。コミックス出版後半年以上経ってからフジTVにてこの作品は
ドラマ化されましたが、先にドラマ化されていれば藤ノ川の描写の助けになったのに・・と思ってしまいます。
 「そんなものに頼らず取材に行けば良い」と考える方が普通ですが、取材費の問題で二泊三日以上の日程が組めなかったため、当地を回ると確実に一泊以上あしが出てしまうのです。それで
「なんとかなるだろう・・」と諦めたわけです。藤ノ川に関係している方が、このコミックスを読む可能性は非常に低いと思えましたし・・(^^ゞ 
 しかーし結果として・・また言い訳じみたセリフになりますが、
heike_03.jpg作画に時間が無かった。イメージを創る時間も惜しく、ひたすら手を動かすのみの滅茶苦茶なスケジュールで進行してました。これじゃあ、良い絵が入るはずもないんですけどね・・
 今となってみれば、無理にでも行けば良かったと思います。光彦が何を感じたか? 事件に関わる光彦の心情と云ったものが、行く事によって深く理解できたのではないか思えてなりません。
<<<<<<<<飛島村「伊勢湾台風殉難之塔」
 予定が変わって広島で宿を取れたのはある意味で幸運だったかも・・「牡蠣」が食べれた!! (^.^) 取材と云えども御当地名物くらいは食べたいもの。良かったです^^;
 予定変わって三日目は大急ぎで名古屋に移動、生まれて二度目の来訪です。ここでも名物
きしめんを食しました(^^ゞ
 主な目的は県立図書館での
「伊勢湾台風」の資料探しと「教由と林太郎」ふたりの少年の運命を変えた当地である弥富町飛島村の取材です。
 近鉄名古屋線弥富駅前でチャーターしたタクシーでふたつの「伊勢湾台風殉難之塔」を巡りましたが、弥富町にあの塔が単なる立方体であるのに比べて、飛島村のものは内田先生の原作に描写されているように殉難の際の情景をリアルに再現した像が印象的でした。
 それぞれがいかなる経緯で建てられたものか興味のあるところです。ただどちらも今は昔なのでしょうか、訪れる人もなく寂しげで、当地の人々の記憶からも「伊勢湾台風殉難」は
遠い過去の出来事と化しているように思えてなりませんでした。
 このあたりは一帯零メートル地帯と云って良い土地で、見渡す限り凹凸の無いロケーションは(背の高い樹木もほとんど無い)関東平野・武蔵野台地と呼ばれる東京西部の一帯も負けるところです。
 飛島村の場合、あたり一面が水田の様に土を掘り下げ水を張ってあります。上空から見るとまるで水田地帯のように見えるのではないでしょうか? タクシーの運転手さんの話すところ、飛島村は
全国一「金魚」の産地だそうで水田に見えるのは金魚の"いけす"だそうです。行けども行けども道の両側に広がる"いけす"の規模を考えると、全国一と云う言葉も納得するところでした。


2000/3/22 貯木場heike_02.jpg
 
「伊勢湾台風」の被害を史上空前の規模にした原因にこの貯木場の存在が挙げられます。そもそも台風の勢力としての伊勢湾台風は、気象庁の観測史上最大と云うわけではありません。
 手許にその資料自体はないので取材当時の記憶に因りますが、史上最大は
「第二室戸台風」次が「第二宮古台風」で伊勢湾台風は3番目になるはずです。
「第二室戸台風」は最大規模の台風であったわけですが、その被害は甚大なものの伊勢湾台風程ではありません。「第二宮古台風」はその名の通り琉球列島、沖縄の近くの宮古島を直撃した巨大台風ですが、本土への影響はそれほどの規模ではなかったようです。それでは何故伊勢湾台風が「平家伝説・・」の中でも語られる程の災害となったか?
 史上3番目の規模の巨大台風である事。伊勢湾と云う奥へと海が狭まる地理的条件。さらに愛知県地方の海岸線が、俗に零メートル地帯と呼ばれる低地が続いている事。そして写真でも見られる貯木場の存在です。
 この貯木場は有名な「木曽檜」積み出しのため始まったのではないかと思います。現代においても輸入木材の集積地だと記憶しています。取材当時も飛島村付近一帯はいたるところが貯木場になっていましたが、集積してある木材の大きさは直径にして50〜60cm規模のものがほとんどで、伊勢湾台風の記録に残るメーターサイズのものはありませんでした。もしかしたら貯木場の規模としては以前の方が大きかったのかもしれません。ただ10mを越える津波にこれらの木材が乗って町を襲うことを考えると、木材の大小は関係ないだろうことは想像つきます。
 副次的要因の絡み合いと当時の未熟な土木工事に因る堤防の決壊、大量の海水の流入に因る土砂の流出。これらのため死者の死亡原因の多くは水死と記録されています。台風の規模もさることながら、つまるところ人間の文明の歪みがもたらした災害と思うのは間違いでしょうか? この災害が「教由と林太郎」ふたりの少年を、数十年後に繋がる哀しい物語の主人公に仕立て上げるのです。


2000/3/29 地域色heike_01.jpg
 弥富町と飛島村を訪れたその日は、今にも空から雨が落ちてきそうな雲空でした。右の写真は近鉄名古屋線の
弥富駅前ですが、昼過ぎのこの時間まだ明るかった空はタクシーで移動するなか次第に暗くなり、殉難の碑の取材を終え再び弥富駅に戻って来たころにはしとしとと雨が降り出して来ました。
 小説のキャラクターに感情移入するならば、天が教由と林太郎の人生を哀れんでいるかのようでした。
 弥富町は地平線の彼方まで何も無いような飛島村と違い、大都市名古屋のベッドタウンと云って良いような住宅街です。東京や大阪などの郊外にもこんな町はあるのではないでしょうか。
 都市周辺の比較的新しい町並みはどこも似ている感じです。ただあまりにも平然とした町並みに、伊勢湾台風によって津波が押し寄せたと云うイメージはまったく伝わって来ず、40年の歳月と人の営みの変化を実感したものです。
 駆け足の取材で
「尾道・三次・出雲仁多・名古屋」と回って来ましたが、狭い日本広かった!! 鉄道沿線を見て回るといった観光と違い、目的地を点と点で結ぶ取材旅行では一回の移動距離がかなりのものになります。車窓からの眺めも連続した変化として見せられると、同じような家屋が並んでいるに関わらず地域色が見て取れ、似ているようでも地域地域の風景があり、グラデーションがかかった移り変わりを確認する事ができました。それを絵で表現するのは非常に難しいことですけどね・・(^^ゞ
 しかし東京に帰り着いたころはかなり疲れ込んでしまいました。カメラ機材をかなり充実した形で用意して行ったため、帰り道はそれが非常に肩に食い込んだモノです。往復ニ泊三日1500kmを越える行程をほとんど電車で移動するのだし、写真家が撮影に行くわけでもないのだから、「最軽量の装備にするものだ」と云う教訓は後の「軽井沢・・」で生かされたのは云うまでもありません。


2000/4/20 東京という街5/4一部改定
 東京都内の取材は1998年のまだ熱い盛り九月に行ないました。東京は残暑を過ぎて九月に入っても・・というより十月に入り秋の声を聞きそうな時期になっても、日中30度を越えて半袖でも汗をかくことが多いです。だから九月前半はまだ真夏と云って良く、秋の気配を感ずる事ができません。
 
私は寒い方は大好きです札幌でのマイナス5〜10度くらいの気温なら、中綿入りブルゾンの下はシャツ一枚で十分です。ここ十数年以上セーターなど毛糸のものを着た覚えがありません。けれど汗をかくのが大嫌いで、こんな時期に機材を抱えて歩き回るのはできれば避けたかった。
 都内の取材は
「青山」をふりだしに都営・営団の両地下鉄とJR・私鉄をに駆使し、品川・高田馬場・銀座そして浅見家のある北区西ヶ原と東西南北縦横無尽状態でした。幸いにも当日は正午付近の時間帯こそ熱かったものの、夕方には涼しい風も吹き心地よかった事を覚えています。
 
heike_09.jpg最後の「夜景」撮影の為、この日ニ度目の銀座ではもっと熱くて良かったのにと思ってしまうくらいでした。なぜなら銀座では、取材上がりにビアホールで一杯!! を目論んでいたのです(^。^;)目論見は叶いましたが、いまいち汗が足らなかった!! 汗をかくのが嫌いと云いながら、なんて贅沢なやつ!!
 
ビアホールと云えば銀座、日本の中心ですか・・>>>>
 東京の町並みは基本的には、江戸時代に作られた道筋通りに発達して来たようです。当然現代の車事情に合わせて、道幅は広がり新しい直線的な道路も増えています。けれど古地図を観ても分りますが、
皇居を中心に千代田区、港区、新宿区、文京区、台東区あたりは300年以前と変わらない道筋が見て取れます。それはやはり戦国時代を象徴とする武士の世が生んだ「攻められ難い」道筋が入り組んでいる町並みであるようです。
 今も日本各地に残る著名な城下町には、必ず同一の思想に元ずく設計が成されています。それは有事における
敵軍の進攻をいかに遅らせるかです。各藩の首都と呼ぶべき御城下は、天守閣をもつ城を中心に城下町が広がり、付近には必ず有力な街道が走っているものです。大抵の場合、その街道から城までの道筋は直線状に作られてはいません。道幅が狭くでっぱりひっこみがあり、あるところではいくつかに分岐し、行き止まりになる道もある。城が目前にあってもなかなか近付けない、まるで迷路のような込みいった道作りがされています。このような道作りによって敵軍を混乱させ進攻を遅らせようと考えたわけですし、勇み立つ人間心理をじらす効果的な設計と思われます。
 東京の場合、徳川幕府の自信の現れでしょうか、上記したほどの有事を想定した道作りではありません。江戸の街作りはニ代将軍秀忠の時代にその基礎が出来上がったといわれますが、それは
「の」の字状に街区を造っていくことにあります。江戸城を中心に、時計回りにとぐろを巻くように町並みを発展させていくのです。ただこの街作りは現代の車社会には適合できないようです。それは新たな街作りをしようにも、中心部が稠密になり過ぎてしまうことです。「巻き物」の芯が抜き取り難いことと共通しているでしょうか。
 
明治維新、関東大震災、太平洋戦争と数度に渡り大きな厄災をくぐり、その度に瓦解し根底からの再建が考えられた東京の町並みですが、その都度地域の反対や、それらをバックボーンにした有力者の手によって再建計画は潰されてしまいました。行政がもたつく間に、民間の手によって計画性の無い街作りが進んでしまうのは、今も昔も変わらないようです。数少ない、将来を見通した計画が具体化した例がJR中央線です。
 新宿から東京郊外の立川市までの約25kmの区間がほぼ一直線上にレールが敷かれた事です。あと成功例とはとても言えませんが、国会議事堂前からわずか200mだけ造られた、俗に云う「100m道路(幅員が)」でしょうか・・なんとも寂しいものです。 


2000/5/4 東京という街-2
 ストーリーに従って東京を移動しようとすると、まず最初に登場heike_06.jpgするのが品川です。仮面夫婦・伊藤善幸と多岐川萌子のぼろアパートがあった南品川は、江戸時代から町外れ或いは市域には入っていなかったかもしれません。
南品川。奥の交差点が旧東海道 >>>>>>>
 明治維新後の富国強兵政策に因り、京浜が工業地帯として昭和まで発展したことに伴って、江戸時代の品川の大木戸から旧東海道に沿って町並みが進展して出来上がったように思えます。東京生まれの東京育ちでも、東京の隅々を知っているわけでは無いので、これはあくまでも私の仮説ですが南品川は元々場末の町と思えます。仮面夫婦にはうってつけの町ではないでしょうか?
 
なんかこの製作記では、その土地の事をバカにしてばかりいる様で大変恐縮してしまうのですが、南品川を下町とは呼べないのです。雰囲気が無い。
 下町と云うと東京の人間で無くても、浅草を思い浮かべる人は多いと思うのですが、浅草と比べると南品川は殺伐とした国道沿いのありふれた住宅街にしか見えません。
 最近立ち並んだマンションには、他県からの移入者がほとんどであろうし、日中でも街路を歩く人陰はまばらでした。古い木造の建物と新しいコンクリートの建物、広い直線の道路と狭くてクランクの多heike_07.jpgい路地裏。
 内田先生の計算がどこまで及んでいたか聞いていませんが、二面性と云う言葉から仮面夫婦の潜む町として最適な町としか考えようも無いのが事実です。
 一歩車通りから入ると、そこは一種の迷宮。狭い路地があみだ状に走り、自転車すらすれ違うのがやっとの路地沿いに「うなぎの寝床」よろしくぼろアパートの玄関が並ぶ。いかに建物が新しくても、江戸と云う時代に取り残されたままの町並みが、外界の人間の感覚を狂わせるように思えてなりません。
 左の写真を見て路地の狭さはおおよそ見当が付くと思いますが、目線を写真中央上部に上げるとそこに見えるのは14〜15階建てのマンションで、国道一号線を挟んで立ち並んでいます。町並みの形状は180度違う街区なれど、閑散とした町の雰囲気に違いはありませんでした。
 乾燥した町。別に埃っぽかったわけじゃないのは、お分かりと思いますが、この後訪れた南青山とは正反対の町であり、多岐川萌子の変身に見合った住まいの転進として、内田先生はどこまで計算しているんだ? と首をひねってしまいます。単に私の思い込みだけなのでしょうか?
 とにかく南品川と云い南青山と云い「南」と云う文字は語呂合わせでは無く、何か暗示めいたモノがあるとしか考えようがないのが南品川で得た結論です。


2000/5/12 南青山
 小説の中の描写を頼りに、萌子のマンションがありそうな一
heike_05.jpg帯に行ってみたのですが、行った場所が内田先生が考えた場所とは違ったのか、ある程度の成功?をみた萌子が住むにはちょっとイメージの違う場所です。
 都心のビル街の様でもあるけれど、どこか雑多なイメージと清掃がよく行き届いたハイソさを感じさせる街路と、筋ごとに違う表情を見せるのが南青山です。考え様に因ってはこの微妙な混在が「萌子」と云う人間を表しているようでもあり、おもしろいものです。ただし萌子の内側に渦巻くドロドロとした欲望と云うものを感じさせる湿気は無く、どちらかと云えば都会に有りがちな隣の他人との関わりを持たない、乾燥した雰囲気が有るような印象でした。
 
の写真は原作の描写にも出てくる「根津美術館」近くの交差点です。道路の両側に街路樹をもち植え込みの手入れも良く行き届いた高級マンション街と云った感じです。某TVで人気の骨董店がある「南青山骨董通り」はこの近くのはずです。
 左の写真が萌子のマンションがあるであろうと想定した街並ですが、形も色もバラバラで街並の美観
heike_04.jpgをなんら考えていない建築物たち。電線等の地下埋設化が進んだ都心にあっては珍しく電柱が立ち並び、電線が頭の上を何本も通っています。上の写真の街区はすでに埋設化が済んでいるのと比較して、余計に雑多さを感じさせます。路上駐車の高級車がかえって違和感を醸し出しもするくらいバランスの悪さを見せる街です。
 jazzシーンで有名な「ブルーノート」の東京店があるのもこの近くで、当時すでにNew Yorkの本家の方がつぶれているのにブルーノート東京は営業していましたが、今はどうでしょうか?
 この南青山からは東京の中心と云うより日本の中心である官庁街へは徒歩でも行ける距離ですし、銀座・赤坂・新宿・渋谷・六本木、代表的な繁華街へのアクセスもかっこうを付けさえしなければ、自転車でふらっと行った方がよほど早いかもしれません。
 東京に住んでいる私でも普段は電車移動が当たり前であるせいか、たまにこうして都心に出てみると東京と云う街の意外な狭さに驚く事が多いのです。こうした感覚の違いは東京に限らず大阪などの大都市に住む人には必ずあるように思えます。

 南青山と云う土地の住み易さは経験がないので計り知れないけれど、単に高級住宅地としてのイメージだけであれば都内には他の場所があるわけで、萌子が更成る欲望を燃やしたとて納得がいきます。田園調布・麻布・松濤・・・どんな場所に住む事を望んだのでしよう? ただ前述したように非常にアクセスの良い土地であることに代わりは無いわけで、同じマンションに暮しを代えた伊藤善幸(にせ稲田教由)にとって、このアクセスの良さが代えって彼を自閉症にし「萌子殺害」に走らせたと考えられなくもありません。
 繁華街でにぎやかしく遊び回れず、閉じこもりがちに成りそうな人物としての姿が伊藤には見えます。都会で自立できず孤独の瀬に立つ伊藤善幸は、地味でもふるい馴染みのいる早稲田に固執すべきであったのかもしれません。そう云った意味で当山林太郎は、本人にその意志が無いにも関わらず周囲の人間を不幸に追い込む魔性があったのかもしれないし、結局自分を死へと追い込んだのは自身のその魔性だったのかもしれません。
 平家物語の一節が妙にはまってしまうキャラクターたちにとって、東京は似合い過ぎるほどの舞台なのかも・・・


2000/5/25 平家の末裔?
 このコーナーは製作記と云うより、取材旅行の紀行文みたいな感じになってしまいました。それが悪いわけではありませんが、今回はちょっと趣向を変えてみたいと思います。
 当山林太郎のマンションがあったJR
高田馬場駅heike_08.jpg西武新宿線、営団地下鉄東西線が乗り入れる「一船式(ホームが一本しかないもの)」の鉄道の駅としては、1日の乗降客数日本一の駅だそうです。「吉良邸討ち入り」の志士のひとり、堀部安兵衛の「高田馬場の決闘」でも有名ですが、今や昔と云った感があります。
<<<<<多岐川萌子が当山の偽装自殺を目撃すると思われる橋。
 この一帯は住宅街と繁華街そして学生街が混然とし、アフターファイブの時間帯は学生とサラリーマンが入り交じって闊歩しています。こんな街の片隅に「当山林太郎」のマンションがあるわけですが、なかなか小説の条件にあてはまる建物がなく探すのに意外と苦労したものです。
 結果該当するだろうと思われたのが左の写真。車一台がやっと通れる一方通行の狭い道沿いです。
 当山の喫茶店「藤ノ川」があった早稲田は、前出の東西線で一駅違いになります。ところでこの早稲田、有名私立大学「早稲田大学」のお膝元に当たるわけですが、妙な事でも全国区になりました。そうアイドル女優広末涼子(これまた今や昔、今度はお母さんだ!!)の入学騒ぎで妙な脚光を浴びたのが早稲田大学。毎日取材陣でごった返していたものです。

 さてその広末涼子ですが、実は「稲田佐和」のイメージモデルが彼女だと云うと驚く方が多いのではないかと思います。ですが、事実なのです!! (^_^;
 ドラマのキャスティングに対して、アサミストの皆さんはかなりこだわりがあるようなので「えーーーっ!!」と叫ばれてしまうかな? と思ってしまうのですが、彼女がグラビア写真などで時折見せる「色気」と「芯の強さ」が示す非凡さ、それと普段の「どこにでもいる」と思える平凡さ、この二面性が私の思い描いた「佐和像」に非常に近かったのです。
 あれだけの人気を得る「広末涼子」です。例え演技が今だヘタであるとも、技術論を越えたキャラクターとしての魅力は当代随一と云って良いのでしょう。そのキャラクターとしての魅力が、佐和と共通していると思えるのです。偶然にも広末涼子は佐和と同じ高知県出身と聞きます(もちろん藤ノ川ではありませんが・・)し、風土に根ざした気質と云うものは一緒ではないかとも思えるのです。設定当時の広末涼子の年齢も佐和と同じ十九歳ですし、ドラマのキャスティングにしても過日の「平家伝説殺人事件」のヒロイン役よりハマると思えませんか?

 漫画ではモデルとは云え、顔を似せて描くと云ったことはしませんでした。髪の毛の長さも違います。ただ「ころころ」と変わる表情と云ったものを似せられれば良いと思って作画していたわけです。
 運命が定めた人の生き方、片や
「アイドル女優」片や「平家の末裔」。どちらも平凡な人間には体験出来ない、そのキャラクターの人生ですが、未来に幸福が待っているか? それはシナリオが今だ書かれていないドラマの先行きです。


2000/6/5 浅見と内田post01.jpg
 フリーのルポライターは世を忍ぶ仮の姿。してその実体は名探偵・浅見光彦と「軽井沢のせんせ」こと売れっ子作家の内田康夫は、北区西ヶ原の居候でも軽井沢の住人でもなかった!!
 実は単なるボロアパートの住人だったのだ!?左の写真がその証拠。ふたりとも同じアパートの1、2階にほそぼそと住まいしていたのだ!! 写真右下1号室に内田氏、左上10号室に浅見氏。浅見シリーズの小説の中の描写はうそだったのだ!!

 今回も趣向を変えて冗談で始めてみました。写真は単なる偶然、知り合いが仕事場に使用しているアパートの郵便ポストのヒトコマです。
 単なる偶然とは云え、浅見シリーズの漫画さえ描かなかったら例えこのホームページを持っていたとしても、わざわざ紹介するほどの事ではありませんでした。偶然とは云え漫画シリーズの作者であり、原作の読者でもある私には結構楽しめる出来事であり、こうして紹介できるのも何かの縁と感じずにはいられません。
 一号室の内田さんは管理人さんとのこと、浅見さんの方はさて? どのような方でしょう。居候を卒業して一人暮
post02.jpgしを始めた三十男・・そんなわけないか。
 右の写真がそのアップ。間違い無い事がわかってもらえるでしょう。
 小説と云うものは世の中に数万と存在するメディアですが、その作家と主人公と同姓のひとが同じアパートなりマンションに暮らすことも珍しい事だと思いますが、そのアパートにその漫画を描いている人間が出入りしていると云う事は、おそらく世に初めての出来事ではないでしょうか?

 まぁいくら珍しいとは云え、アサミストの方達にもあまり興味のわく話でなく楽屋落ち的、私だけが楽しんでる事かもしれません。でもこのアパートまだ空室があるので、私が仕事場として部屋を借りれば「浅見・内田・市橋」と列んで、それはそれで冗談のようで楽しいかもしれません。偶然ではなくなってしまいますけどね。

 さて次回からはまた「平家伝説・・・」の製作話しを再開します。光彦の実家がある北区西ヶ原周辺の話を御紹介できると思っています。


2000/7/1 西ヶ原・考heike_15.jpg
 当世で云うところの、高級住宅街といった趣は今の西ヶ原にはない。同じ東京でも、練馬区も西のはずれの方にある私の住まいのあたりは、昭和40年代のいわゆる高度成長期に住宅街として発展し、いまでこそ住宅が整然と隙間なく立ち並んでいます。そんな土地に生まれ育ったものから言わせると、西ヶ原というところは俗に云う「下町」と「山の手」の中間、東京の高級住宅地の代表に例えられる「田園調布」と比較すると一般庶民向けと云った雰囲気があります。
 左の写真はそんな西ヶ原の中心部を走る通りですが、片側一車線の狭い道です。内田先生に確認をとったわけでは無いのではっきりとは言い切りませんが、この通りの右側一帯のどこかに光彦の実家があるものと想定しました。
 今でこそ東京と云わず大阪・名古屋など他の都市部のどこでも見かける街並ですが、内田先生が住まいされていた頃や高度成長期以前の光彦の父親の時代あるいはその先代の時代は一等地だったのかも知れません。
 宅地としての評価を下げる要因のひとつに鉄道路線の有無があると思います。東京の場合「JR山手線」を中心に都心へのアクセスの便利さが地価の基準と云って良く、直行路線をもつ(相互乗り入れなど)路線の人気が高く、それはJRも私鉄も変わりません。
 西ヶ原の場合徒歩の圏内におよそ3つないしは4heike_11.jpgつの駅が在り、京浜東北線の上中里駅が最寄り駅です。右の写真は同駅前ですが、都内に合ってはおよそローカルな駅で、ある意味静かな暮しを望む人にとっては理想的かもしれません。
 北区西ヶ原と云う土地自体は都心へ電車で十数分という場所なので、にぎやかさは要らないとも思えます。ただ都内でも有数の繁華街である渋谷・新宿・池袋へのアクセスは悪いです。遊び好きの人間には向かないのも確かな話で、住む人を選ぶ土地と云って差し支えないのかもしれませんね。

 写真の左奥が上り坂となり、左にカーブした先の右側崖の上に、光彦が遭遇した事件のいくつかに登場した「平塚神社」があります。この平塚神社の門前に店を営む「平塚亭」では、いまも光彦や母・雪絵が頬張った御団子が売られています。
 神社の鳥居を出て門前の本郷通りを右に歩いて行くと、京浜東北線王子駅(上中里駅の隣)に出る直前に、都内でも有数の花見の名所「飛鳥山公園」に辿り着きます。この公園も光彦シリーズの中での登場地として知られているかもしれません。
 公園の手前あるいは王子駅前には都電(路面電車)の駅がいくつかあり、電車と都電を使って都内巡りかたがた光彦の御当地めぐりをするのもおもしろいかと思います。

heike_14.jpg それにしても今回の取材で思った事、東京都内は住所地番が分かっているだけではなかなか目的地にはたどり着けないだろうと云う事。生まれも育ちも東京の私でさえ「北区」「飛鳥山公園」がどこにあるのか知っていても、「西ヶ原」と云う地名になると、番地が分かっていてもそこまで辿り着くのは容易ではありません。
 高知県西土佐村生まれ、はっきり云って田舎の山育ちの
「稲田佐和」が、光彦の名刺だけを頼りに浅見家に辿り着くのはかなりの至難の技だったに違い無く、それだけ佐和の必死さが伝わってくるというものです・・(^_^;
 最初に「多岐川萌子」を訪ねた時を考えれば、まず新幹線で東京駅に着きそこで京浜東北線に乗換えるというのが順当なのですが、それは東京の人間の考え方であって、佐和には考え付かない方法だと思わなければなりません。列車で旅行に出た時の乗り継ぎの手間を考えれば、見知らぬ土地で住所のみを頼りに歩く事の困難さは想像を越えるものがあります。
 単純に「a地点からb地点へ」との考えるのでなく、キャラクターのバックポーンがどういうものかと考えるだけでストーリーの奥行きも増し、より一層キャラクターへの感情移入も深まり、小説や漫画を読む面白さが拡がるものと思います。


2000/7/29 まとめ
 浅見光彦シリーズ第二作目にあたる本作ですが、個人的に云って「伝説・・」と云うタイトルは「後鳥羽伝説殺人事件」よりこの「平家伝説殺人事件」の方が似合っていると思います。この物語には人間の血の「業」といっものがより強く描かれ、コミック版では原作にも無い「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・・」という「平家物語」の有名なくだりを、冒頭とラストシーンに挿入することにより、一層雰囲気出せたのではないかと思っています。
 佐和や教由がもつ「平家の血」を代表として、萌子や林太郎の「エゴ」など社会的には否定されながら、これ無くしては人間性を語れない要素がストーリーを形作っています。登場人物のひとりひとりが「平家物語」のくだりに生き方がだぶり、「奢れるものもひさしからず・・・」ではないですがエゴをむき出しにした人物達は、それなりの亡び方をしていきます。
 社会を持つ人間がそれぞれ自分の欲望のままには生きられない、他者を押し退ければ必ずその酬いが訪れるわけで、「好き」の一言では結ばれる事の無い、光彦と佐和など人それぞれが定められた運命の中で、もがきながら生きていく事を描き出しています。良くも悪くも自分の住む世界を、自らの賢明な判断で選択しなければいけないと云う事であり、その場の感情のみでは最良の選択はできないという事を教えてくれているような気もします。

 原作の雰囲気をどれだけ描けたかは分かりませんが、物語のテーマにあたる部分はうまく表現できたのではないかと自負しています。とにかく佐和を「可憐に、自立していて、はかな気に」魅力あるキャラクターとして描く事に専念してあたりました。ただ「平家の血」とはいったいどういうものでしょう? ある種超常的能力を持つ少女ではありますが、それが佐和の本質では無く利発で献身的な女性ではないかと思います。
 自己のみに生きるのではなく、他者の中での自分のポジションを本能で理解しているのが、平家の末裔である佐和であると確信しています。単純に云えば善なる佐和と悪の萌子の描き分けがこの物語のキモであり、男達がいかにこの二人を生かすかが正否を分けるのではないかと考えます。
 はたして漫画としてのこの作品が、うまく描けたかは読者の判断に委ねるとして、私の「平家伝説殺人事件」に対するスタンスはこのようなものでした。

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