1999/12/17 本当は年三冊ペースだった
この企画の最初の話は溯ること1997年の11月、製作決定をみた後翌年の1月には「後鳥羽伝説殺人事件」「平家伝説殺人事件」ニ作品のネームもほぼ完成し作画に入れる状態までになっていました。
「ネーム」というのは漫画家にもよりますが、おおむねページごとのコマ割りを決めセリフとそれが入る「ふきだし」の位置を決める、下書きの前のいわばシナリオ作りみたいなものです。通常小説を原作とする場合、原作の小説家は漫画の製作にはいっさい口出しはないのが当たり前でした。いわば、好きに作って・・という形をとる方が多いのです。お互い立場も違うしメディア自体違うので、お任せという立場をとるように考える方が多いのでしょう。実際年配の小説家は、漫画の作り方を知らない方が多いようですから口の出しようがない、と云う事もあるようです。こういう事から普通は小説を原作とする漫画は、雑誌に掲載されない書き下ろしという形で単行本が発行されるため、小説の雰囲気を再現するかよりいかに短期で仕上げるかが主眼となります。こうした場合えてしてやっつけ仕事になることが多く、小説のファンにしてみればクレームをつけたくなるような作品になることも多いのです。
私の場合単行本1冊を描き上げるのに、一人で作業した場合絵だけで本来ならば4ヶ月は必要です。これにネーム作製の期間を入れ他の細かい作業の時間をとるとトータルで半年かかってしまいます。しかしまず100%これだけ時間をかけられる仕事はなく、大抵の場合4〜5ヶ月しか与えられません。もともと睡眠時間と食事時間以外の全てを(一日12時間以上)仕事時間に充てる漫画の仕事では、製作期間の短縮は即ち手抜きに繋がることは否めません。よって普通はアシスタントを使用するのです。(金銭的余裕がなければ不可能になりますが・・)
「浅見光彦シリーズ」は最初、年3冊刊行の予定でしたが売り上げの多少の問題の他、内田先生が普通の小説家ではなかった(^^ゞ 事がこの刊行ペースを不可能としました。
内田先生も自ら「漫画はほとんど読んだ事がない」と言われるくらい漫画のことを御存じありませんが、御自分の作品に対して大変強い愛着をお持ちで、各作品のネームに添削を入れることがシステムとして出来上がってしまいました。内田先生御本人の確認のうえの作品なので、他の小説原作漫画より原作の雰囲気に近い作品に仕上がったということもあるでしょうが、年2册しか描けないという事にもなりました。
内田先生にはまずネームでチェックを入れて貰いましたが、なにぶんにも多忙な方なので2〜3日でOKが出る事がなく、大抵は1週間待つ事が普通ですし作画終了後のチェックも加えると合わせて2週間時間が多く必要となります。
こう云った今までにない経緯と、出版元の中央公論社が読売新聞に吸収されるというイレギュラーも加わり3冊目を出版するか否か、結論がでるまでに時間が必要となったのです。
言い訳みたいになりますが、こうした事で作画スケジュールが非常にきつい事とアシスタントを存分に使う金銭的な余裕がなかった為に、私としては丁寧に作画が出来なかったことが残念に思えてなりません。とても贅沢な事と関係者からは言われそうですが、あと1ヶ月ずつ時間があったらもっと自画自賛できる作品に仕上がったと思えるのです。それでもネーム作りにはかなりの労力を加えているので読んでおもしろい作品になっていると云う自信があるのは間違いありません。
2000/1/4 取材一発、いざ広島へ
1997年の12月27日からの
二泊三日の旅行、それが担当の編集者と二人で2本分をいっぺんに取材してしまおうという計画。
新幹線で尾道に行き、そこからJRで三次に移動してレンタカーで出雲仁多町へ、その後三次に戻ってまたJRにて名古屋に移動。この行程だけでも日程的にはきつかった為、結局一カ所のみ飛び地のようになっていた高知藤ノ川が行けず終いとなってしまいました。
結論としては、この取材の時点で原稿にすぐ移れる程の完成度のネームになっていなかった、よって藤ノ川に行けなかった事が、後になって大きな苦労となるとは思いもしませんでした。
「平家伝説殺人事件」で出てくる都内各所のは後日一人で取材しましたが、各所を訪れることでTVゲームのRPGの様に主人公=光彦に成り変わった気分を味わえ、この辺になって取材の大事さが分かって来た感じでした。
光彦がどの様に風景を見て感じたか、ビジュアル的要素が高い漫画は小説以上に取材が大事でないか? そう思います。不幸にも取材慣れしていない人間が行ったものだから、後になって大事さが分かってくる、実在の土地が出てくる話ゆえに充分な取材が大事であることは間違いありません。
2000/1/7 後鳥羽伝説殺人事件
初の書き下ろしの単行本、それも漫画の仕事では滅多に行けない取材旅行(行かなくはないですが、普通自前が多いと聞きます。この仕事の場合は出版社持ち)とあって勢い込んで出かけたものですが、尾道は遠かった! 東京から新幹線でおよそ四時間。この際開業まもない「500系のぞみ」に乗車できたのですが、この車両の居住性の悪さったら!! 円柱形のボディから来る側壁の彎曲が、天井に向かって座席を圧迫するように頭上に迫りなんとも居心地が悪かった。見た目は最新の「700系」
よりかっこいいんですけどね・・・
それはともかく中国地方という土地は場合によっては飛行機で一発! と云う方法をとった方がはるかに疲れないで済む場所が沢山あるようです。
ところで旧国鉄の解体後、その営業路線は全てがJR各社の所有とならず第3セクターと云った形をとる線区もたくさんあります。
福山から三次への移動に利用した「福塩線」はJR経営だったと思いますが、東京に生まれ育った者にとってなんとも違和感の多い路線でした。単線で一両編成、ここまでは良く聞くローカル線のスタイルですが、車両がぴかぴかの新品!! (右の写真)なんともローカル線らしからぬ新しい車両にそれまで持っていたイメージとどうにも合致しない違和感があったのです。
この福塩線、東京人の感覚で云うと都内を走る路線バスと同じで、高校生の通学の足であり主婦の買い物の足として生活に密着した交通と云う印象でした。実際車両の規模が東京などのバスのワンマンカーと変わりませんから・・
ともあれ渓谷を縫うように走る福塩線で辿り着いたのがなんとも特徴のない地方都市三次市でした(在住の方々すみません・・)。以下次回へ
2000/1/11 旅情ミステリー
ところで左のモノクロ画が、本シリーズの漫画家候補を探していた際にプレゼンテーションとして、中
央公論社に提出したイラストです。以前からの原作読者で作品のイメージを持っていたつもりでしたが、いざそれを絵として表現しようとすると意外と難しいもので、結局はありきたりなコラージュとなってしまいました。
この絵の光彦はちょっと年齢が幼く見えると感想がありましたが、結局のところこの絵が私を本シリーズの漫画家として選択される決手になってくれた事は確かなようです。
このプレゼンからして「旅情ミステリー」と銘打っている通り、浅見光彦のシリーズは旅情という言葉が切っても切れません。旅情という言葉に誘われて旅した取材旅行、確かに尾道は映画の大林監督が「尾道三部作」を撮影するなど、旅情あふれた素晴らしい町でした。
ただ一歩こうした有名観光地から離れると日本という国はどこへ行っても見なれた風景で、それが善くもあり悪くもあり・・歴史的な観光地を持たぬ土地が「町起こし」と称して大金を賭けて再開発をしてもなかなか成功しないのは、すでに町そのものが「どこにでもある」ことに
起因していると思えてなりません。
前回「ごめんなさい」をした、広島県三次市にしろ辿れば私の住む町などより遥かに歴史の深いところであるのに、明治以降あるいはもっと最近になってからかの町家の再開発・再建築のため、おそろくこの地方ならではの町並みが消えてしまったのだと思います。
尾道の港沿いでみつけたボロいけど味のある鮮魚店の建物>>>>>>>>>>>>
町中に立っていると「自分はどこに居るんだ?」とあまりに自分の住処との違和感を感じさせない平凡な町である三次の町を一作目の舞台に選び、「旅情ミステリー」を人気シリーズにした内田康夫先生の眼力あるいは筆力には感服せざるおえません。そうは云ってもやはり三次市が舞台としてふさわしかったのは、背景に流れる歴史でありあの見事な霧であるわけで、この霧ひとつとっても三次市の地理的条件の特殊性から来ていることは想像でき、ミステリーの道具立てにはうってつけ。やはり物語の舞台はドラマ性をもっているものです。
2000/1/14 時刻表トリック
福塩線に乗って福山から三次にむかう気が付いた事があります。途中、府中で車両を乗り継いだ後の方の風景だったと記憶していますが、沿線の町並みに非常に顕著な傾向があるのです。地域によって家の瓦の色が茶色一色だったり黒一色だったり、その地域の全てがそれぞれ一色に統一されているのです。
東京近郊であれば、青あり赤あり焦茶あり緑ありそれこそ絵の具の箱にある色なら全てあるといってよく、茶色ないしは黒だけという町並みは他に見た事がありません。(芸備線で広島にむかう途中にも同じような地域がありました) 町ぐるみで同色の瓦を使用するのには、どんな理由があるのでしょう?ぜひ知りたいものです。
たどりついた三次の駅でまず仕事となったのが、現在の時刻
表を利用して新たなトリックを考えなくてはいけないということ。トリックの方法は原作に習うにしても、当時とはまったく変わってしまった時刻表で原作通りのトリックが可能なのか?問題点はそこでした。時間的には大丈夫でもそれぞれの列車が入線するホームが変わり、跨線橋を使用したトリックが不可能になる場合が生ずるのです。
三次駅全景>>>>>>>>>>>>>>>>
犯人(桐山)が被害者(美也子)を跨線橋上で殺害し、なおかつただちに広島に取って返すことのできる列車、時間帯の組み合わせを芸備線と福塩線の発着の中から探し出す事の難しさ、このトリックがうまくいかないと三次駅での取材にも差しつかえがでるのです。
ここでの苦労がそのまま単行本の冒頭の部分に生きているわけですが、そうした理由で原作とは違ったものになっているかもしれません。
それにしても思うのが列車の時刻表トリックの難しさです。およそこの手のトリックが使用できる立地条件を探すのは時刻表を眺めているだけではダメということ。駅や鉄道の路線の具合によってもトリックの可否が決まるわけで、こうしたトリックを創出できるミステリー作家の頭の中は、立体的に物理条件を構築できる傑出した才能があるといって過言ではありません。
2000/1/18 三次の霧
なんとか時刻表トリックが成立するよう、頭の中での準備が終わったところでまだまだ取材は続くわけですが・・なにしろ取材に慣れていないわけでストーリー全編のイメージができていない事も手伝って、いざ作画作業にはいると写真が足りない(取材している時は漏れのないように写真を撮ったつもりでいたわけですが・・)わけです。
それもこれも、先に書きましたが三次という町があまりにも自分の日常に近い、観光地然としていない町
であったせいもあるかもしれません。
<<<<<<高野町功徳寺前から:町並みと中国山地の山々
見慣れた風景であったため目が止まらなかった、という感じです。この傾向は光彦と同じように、美也子の足取りを追って出雲仁多町へむかう道筋においても同様で「後鳥羽上皇の事蹟」が残っていなければ、中国地方の山々があまり険しくないことも手伝って何の変哲もない普通の峠道(車で移動すると"峠"という感じもあまりしません)になってしまいます。
ところで三次名物の霧ですが、通常だと11月末から12月初旬にしか見られないそうですが、幸運にも三次市内ではありませんが隣の庄原市にむかう途中に、おそらくこれが「あの霧」だろうという真っ白な一面の霧の海に出会えました。
二日目の朝八時過ぎにホテルに出て庄原での取材地への道筋で、霧が出て来たかなと思う間もなくあたり一面を乳白色の霧が包み、沿道の景色は見えない太陽は出ているのにどこにあるか分からない状態。
この一帯は高原野菜の産地として有名らしいく、沿道一帯がレタスなどの畑として開けた土地になっているわけなのでしょうが、それにしても「一寸先は・・」と云って良いほどの濃い霧でした。風景だけでなく、手前の路肩もセンターラインも霧に溶け込み判然とせず、レンタカーを運転してくれた編集氏はそれこそビクビクもの、名物としてもっと宣伝すればいいのに・・と思ってしまう程。「日本一の霧・三次市」とね・・とにかくあれだけの霧は初体験でした。
2000/1/24 出雲仁多町
下の写真は「後鳥羽伝説」終焉の地、仁多町の町並みです。見た通り古い街道沿いにで
きた町と言える風景で、JR木次線の仁多駅は町のはずれにあり、いかにも古い町に後から鉄道が通ったというのが良く分かります。
写真の右手側にすぐ宍道湖へそそぐ川が流れ、仁多駅はその対岸を通る道沿いにあったと記憶しています。
もしもここが後鳥羽上皇最期の地であるのならすでに800年にとどく古い歴史をもった町と云う事になります。しかし今では日本全国のどこにでもある、ありふれた町で往古の面影に触れる事はできませんでした。
さて仁多町に来た目的は「美女原」で過去民宿を営んでいたであろう民家を探す事です。しかし困ったのが「美女原」というところ、道路沿いに数軒しか家が無い事。とりあえずそれぞれの家に当たってみれば良いものを、道路の反対側からこそこそ様子を伺ったものだから、さぞ家の人からは胡散臭く思われた事でしょう。小説にあるイメージ通りの家が見つかればそう出来たのでしょうが、建て替えて間も無いという家もあり、こそ泥のように取材を済ませたわけです。
ここでの取材はコミックスを見て頂ければ分かりますが、モデルになった家もほぼそのまま使用させて頂いたので、その家の方が見れば「あっ! ウチじゃないか」と分かってしまうのも事実です。
2000/1/31 三次ふたたび
何度も「なんの変哲もない」と書いて失礼している三次市の町並みですが、出雲仁多町
の取材を終え再び戻って来た後訪れてみたのが尾関山公園です。東京での下調べの際にすでに存在をしっていた場所ですが、直接ストーリーに関係するのがラストシーンだけで、いざとなれば観光ガイドなどを参照すれば済むかと考えてもいましたが、行くと行かないとでは大きな違いでした。
<<<<<<三次の町並み、尾関山公園から
到着したのがもう陽が西に傾いたころでしたが、尾関山公園の西に流れる神野瀬川でしょうか、巾の広いこの川の水面の向こうに、、低いけれどそれがかえって雄大さを醸し出す中国山地の山々が広がり、晴天の青空に輝く太陽の眩しさ。こうした風景は都市生活者には全く馴染みのない景色です。
下の写真がその眺めですが、この風景はほとんどそのままのかたちで「後鳥羽上皇〜」のラストシーン近くで使用しています。この
風景を使用することを決めた時、絶対に自分自身で描くつもりでいましたが、時間の都合でアシスタントの方に任せたのが、この作品において非常に残念だったことのひとつです。駅や警察署といったもの以外で、写真をそのままの形で絵にしたのはこのカットくらいではないかと記憶しています。
それにしても自分の住処のすぐ近くに、こんな風景があったなら・・アウトドアが大好きな私として、始めて三次に住む人が「うらやましい!!」と思った瞬間でもありました。
川に架かる鉄橋は三次と島根県江津を結ぶ三江線ですが、この先渓谷沿いを走る単線のこのローカル線に乗って、いつか旅してみたいという感傷に浸ったのは、かなりの部分で光彦に感情移入していたことの証明みたいなものす。この後作画作業に入ってからも「浅見光彦だ」という感覚を残しながら、光彦を描いたものです。
大なり小なり漫画家の場合、キャラクター達にこうした感情移入しながら絵を描くものです。キャラの感情表現にそれが生きてくるのは間違いなく、身体ではともかく頭の中ではどこの俳優にも負けない名演技をしているものなのです。
もっともその演技を支えるには「確かな作画技術」というものが必要です。どうにもその辺が足りなかったかなと思ってしまう事は、アサミストの皆さんには大変申し訳ないと思っています。ただ漫画の場合、絵画やイラストレーションのような一枚絵と違い、絵が上手い事にこした事はありませんが、それ以上に必要なのが映画や舞台の監督に匹敵する演出する能力です。いかに読者を引き込むストーリー展開、魅力的な画面構成加えて作画技術、この全てが揃ってはじめておもしろい作品になるのです。それらのいくらかは「後鳥羽伝説〜」で表現できたのではないかと思っていますが、さて?
2000/2/23 まとめ
「後鳥羽伝説殺人事件」を書き終えてすぐ思った事です。「いやになる!!」自分の未熟さがと云う事ですが、自分の頭の中のイメージと実際に出来上がった原稿とのギャップの大きさと云ったら!! このギャップは自分の作品がはっきりした形となって残る、創作者には必ず感じる感覚だと思います。
<<<<<夜の三好駅
イメージ力が強ければ、あるいは技術が進歩すればするほどこのギャップは強くなっていくものです。
かなり長くこの仕事に携わっていますが、描けば描く程結果が出ない事へのジレンマが高まります。
「後鳥羽伝説・・」は内田先生のリクエストでコミック版第一巻にはこの作品と決まりましたが、原作を読み返した時点で「これは難しい作品だ」と感じました。
鉄道の時刻表ミステリーと云うのは、その時刻表が存在した年月日を舞台にしなければドラマそのものが成り立たない可能性が生ずるのです。しかし「後鳥羽・・」の場合、浅見シリーズの第一作であり内田先生の作品でも初期作品にあたるものです。
1981年に書かれたと思われますが、それを17年後に描くと云うのは取材するだけでも大変なことです。時刻表が変わるのは当たり前としても国鉄がJRに変わり、おそらく車両も原作当時とは大きく変わっているでしょう。舞台となった三次市の町並みも様変わりして、当時を探る事は不可能に近いのです。時刻表トリックは原作とは違うものになったと思いますが、苦心の結果なんとか整合性を保った形に収まったようです。
まず最初に「自分の未熟さ」を強く感じたのが背景を描き始めた時。圧倒的に背景資料の写真が足らない事です。たった一泊とは云え、必要になるであろう三次の町並みの写真がまったく足らないのです。これが大都市や有名観光地であればWebや、書店にて観光ガイドのような本を入手可能ですが、それがほぼ不可能であること。事前にもっとリストアップしていれば良かったのですが初めての取材でそこまで気が回らなかったと云う事です。
次に「締きり」と云う言葉のプレッシャーに、まだ時間的余裕のある段階で負けてしまった事。スケジュールを守ることに神経が行き過ぎて、キャラクターの作画に神経が回らなくなってしまったわけです。
「キャラが生きない」と云う事でこれは最悪の事です。ただ「ネーム」と云って漫画用のストーリー作りに時間をとってあったので、それなりにまとまりはしたものの、キャラクター達が生き生きと動いてくれませんでした。よく練ったつもりのコマ割りも平凡で魅力に欠けたかな思えてしまいますし・・・こうしたところで自分の未熟さが身に染みてしまいます。
自ら「ダメだ、ダメだ!」ばかり書くと、買って頂いた方々に「お前はそんなダメな物を売り付けたのか!!」と怒られそうですが、あくまでも作者本人の愚痴なり自己嫌悪と思って下さい。作画していた段階では100点満点のつもりで描いていたわけですから。どんな創作作品でも作者本人の内部では時間の経過にともなって風化していくものです。この風化があるから次回作品への意欲が生ずるわけで、いわば通過儀礼みたいなものなわけです。
自分の作品に対する批判は、趣味で絵を描いている方のなかにもあると思います。その自己批判が高いからこそプロがプロであるわけで、自己批判ができない人は決してプロとして活動することは叶わないでしょう。自画自賛しているようでは、アマチュアからの脱却は決して出来る物ではありません。
こうした反省が第2巻以降のできに繋がっていくわけです。これは自画自賛ですが「後鳥羽伝説・・・」より「平家伝説・・・」、それよりも「軽井沢・・・」と作品のできは良くなっています。おそらく10巻目あたりでは、読者の皆さんに「どーだ! 面白いだろう」と胸を張れる作品になっているはずです
・・・4巻目以降の出版予定はないのですが・・これが最大の難点!!