主な研究業績の要旨


A. 言語の対人的機能とコミュニケーション:

敬語論,ポライトネス

A-3: 滝浦真人(2002)「敬語論の“出口”−視点と共感と距離の敬語論に向けて−」

 『言語』2002年5月号別冊(第31巻6号)大修館書店,pp.106-117.

明治の半ばに始まった日本の敬語論は,戦後に至るまでずっと「文法的現象説」対「語彙論的現象説」という対立から自由ではなかった。しかし,改めて検討してみれば,前者は,本来ダイクシス的な「こそあ(ど)」的体系であるものを無理に西洋語の文法概念「人称」に当てはめたものと言うべきであり,一方後者は,今の用語で言えば,むしろ敬語の「語用論」的側面を主張していたと見るべきである。つまり両者は,会話の場におけるダイクシスという観点において一つに収斂するはずのものである。本論は,このことを確認した後,久野による「視点と共感」の理論と,ネウストプニーらによる「距離」の枠組みとが,両者を架橋して新たな方向性に発展させる可能性をもつものであることを主張する。

A-2: 滝浦真人(2001)「〈敬意〉の綻び −敬語論とポライトネスと『敬意表現』−」

 『言語』2001年11月号(第30巻12号)大修館書店,pp.26-33.

日本語の敬語論は,敬語の本質を〈敬意〉という“気持ち”に求めようとする立場と義務的な〈わきまえ〉の問題として捉えようとする立場に大別できる。前者には身分制に代わる基盤として明治以降急造されたイデオロギー的側面が強いにもかかわらず,身分関係を論理的に前提する後者は,今日に至るまで等閑視あるいは骨抜きにされることが多い。〈敬意〉という物語と決別し,敬語を第一義的には関係把握語として捉えることの必要性を主張する。

A-1: 滝浦真人(2001)「敬語の論理と授受の論理 −『聞き手中心性』と『話し手中心性』を軸として−」

 『言語』2001年4月号(第30巻5号)大修館書店,pp.54-61.

日本語の授受表現は,上下関係を抜きにしては成り立ち得ないがゆえに,敬語との関係も自ずと深い。さらに,授受表現においては,“恩の計量”とでも呼ぶべきものがつねに問題となるために,単に敬語的な〈わきまえ〉にかなっているだけでは適切な表現にならないことも多い。この点において,授受表現は,関係表現としての〈わきまえ〉的な側面と話し手自身の〈ストラテジー〉的な側面の交錯する領域であると言える。そうした認識に立って,〈わきまえ〉と〈ストラテジー〉の,静的な,ではなく,動的な関係を捉えることの重要性を主張する。


B. ヤーコブソンの言語機能論とコミュニケーション:

詩的言語,病的言語,etc.

B-4: 滝浦真人(2002)「ことば遊びは何を伝えるか? −ヤーコブソンの〈詩的機能〉とグライスの会話理論を媒介として−」

 『日本語科学』第11号,国立国語研究所/国書刊行会,pp.79-99.

「ことば遊び」のコミュニケーション上の機能を,ヤーコブソンの〈詩的機能〉とグライスの会話理論を媒介にしながら論じる。それ自体としての〈詩的機能〉は,語の音的/意味的連想を範列軸から連辞化して展開する自動機械的な言葉の“生成装置”であり,それによって生成されるという点では「詩的言語」も「病的言語」も同じである。ヤーコブソンは,両者の類似については論じたが,差異については論じなかった。「詩的言語」を「病的言語」から分かつ一線は〈文脈〉の質にある。そして,〈文脈〉の質の問題は,「ことば遊び」において最も典型的に現れる。グライスの会話理論に当てはめてみると,ことば遊びは「協調の原理」からの逸脱であり,しかもそれは「会話の含み」を生じさせる“見かけ上の逸脱”ではないことがわかる。そのかぎりにおいて,ことば遊びは「レトリック」ではないのであり,文字どおり,“伝えない”コミュニケーションであると言わなければならない。ことば遊びは,様々な仕方で語の意味的連関としての文脈を脱線させるが,今度はそのことが,言葉の流れそのものとしての文脈に対する注意を喚起し,結果的に,ある種の発見的な感覚を伴った強い印象を生じさせることに成功する。その意味で,ことば遊びの固有性は,ヤーコブソンの〈メタ言語的機能〉の体現者でもあるところに求められなければならない。

B-3: 滝浦真人(2000)『お喋りなことば −コミュニケーションが伝えるもの−』小学館,241p.

学生や一般読者を対象として,日常会話,幼児言語,詩的言語,病的言語等から具体例を引きながら,コミュニケーションの全体像を整理しつつ各側面の言語理論的含意を解説した入門書。背景となる理論的枠組は二つあり,一つは,恣意性の原理とその対抗原理としての類似性・有契性の原理という記号学的枠組,いま一つは,ヤーコブソンが提唱した言語の六機能説である。後者については,とりわけ言語の詩的な機能と対人的な機能を焦点化した。

B-2: 滝浦真人(1992)「ことばが感情を表すとき −感情の表出と言語の人称的構造について−」

 『imago』第3巻第4号,青土社,pp.226-233.

ヤーコブソンの言語機能論を下敷きにしながら,感情の表出を例として,コミュニケーションにおける言語の機能を考察した。感情の表出においては,言語の指示機能は事後的にしか機能せず,むしろ,舌打ちのような表情的機能,(「怖い!」ではなく)「助けて!」に表れるような働きかけ機能,「雷さん,怖かったね」に見られるような確認・定着の交話的機能が優先することを述べ,言語の作用的・行為的側面の根源性を主張した。

B-1: 滝浦真人(1992)「《シニフィアンの暴走》をめぐって −失語症と言語機能についての覚え書−」

 『imago』第3巻第1号,青土社,pp.46-58.

シニフィアンとシニフィエが“紙の表裏”の如くに結合して記号を構成するというのが記号学上の第一原理だが,ある種の失語症患者においてはそれが崩壊し,通常コントロールされた文脈によって保持されるシニフィエの優位性が失われて,シニフィアンの暴走とも呼ぶべき状態が生ずる。本論考ではこの現象を,神経学者ジャクソンによる上位機能の喪失と下位機能の解放という視点から捉え直し,言語機能の喪失と残存の関係を考察した。


C. 言語のイコン性とその意味作用:

擬音語・擬態語(オノマトペ),比喩表現,幼児言語

C-3: 滝浦真人(1999)「幼児言語におけるオノマトペとメタファー −子どもはいかにして世界を表現するか−」

 『共同研究 〈子ども〉とことば』(研究叢書 第一七冊)共立女子大学総合文化研究所神田分室,pp.67-162.

野地潤家『幼児期の言語生活の実態』を資料として,S児の言語発達を擬音語・擬態語(オノマトペ)と比喩表現に焦点を当てて分析した。相互に関連づけて論じられることの少ないオノマトペと比喩表現だが,認知的機能の観点からすると,両者はともに発見的機能を果たす一種の言語的認識行為と考えられ,しかも,それらの出現・使用は,聴覚・視覚等の感覚モダリティーの発達と連動した,相補的かつ連続的なものとして位置付けられることが示唆された。

C-2: 滝浦真人(1996)「宮沢賢治のオノマトペ 語彙・用例集(詩歌篇) 補論・〈見立て〉られたオノマトペ」

 『共立女子短期大学文科紀要』第三十九号,pp.35-148.

擬音語・擬態語(オノマトペ)の言語美学的機能はパロール的な使用の契機において最も発揮されるとの考えに立って,まず,コーパスとして詩人宮沢賢治の詩歌におけるオノマトペに着目し,その1,100余の全用例を抽出した。その上で,補論において,賢治のオノマトペに見られるレトリカルな方略を,文脈上での〈ずらし〉による用法と,様々な言語的イメージの〈圧縮〉による造語とに大別し,その手段と効果についての考察を加えた。

C-1: 滝浦真人(1993)「オノマトペ論 −ことばにとっての“自然”をめぐる考察−」

 『共立女子短期大学文科紀要』第三十六号,pp.81-92.

擬音語・擬態語(オノマトペ)は,異種感覚モダリティー間の共感覚や言語音の音象徴的性質と深く関わるがゆえに,言語の恣意性に対する例外と見なされることがある。それに対して,本論考は,詩人によるオノマトペの創造的実践例の考察を通じて,それらが,直に共感覚や音象徴の次元に訴えているように見えて,実際には,いわば擬似的な自然として見立てられた,様々な次元の言語的連想の上に成立していることを主張した。

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